【ヘブライ人への手紙】終わりの時代に生きる【解説】#1

目次

この記事のテーマ

あなたはイエスの、または使徒の説教をじかに聞くことを想像したことがありますか。私たちはその説教の抜粋やまとめたものを持っていますが、それらはごく限られたものにすぎません。しかしながら神は聖書の中に、少なくとも一つだけ完全な説教を残してくださいました。それがパウロによるヘブライ人への手紙です。

ヘブライ人への手紙の著者であるパウロは、彼が書いた手紙を「勧めの言葉」(ヘブ13:22)と表現しています。この表現は通常、会堂での礼拝(使徒13:15)とキリスト信者の〔家の教会〕の礼拝(1テモ4:13)と両方での説教を指す表現でした。したがって、ヘブライ人への手紙は現存する最も古い「完全な形のキリスト教の説教」であると考えられています。ヘブライ人への手紙は、イエスを受け入れた後に、困難の中にあった信者たちに向けて書かれました。ある者たちは公の場でちょう笑され、迫害され(ヘブ10:32〜34)、他の者たちは経済的な問題を抱えており(同13:5、6)、彼らの多くは疲れ果て、信仰に疑問を抱き始めていました(同3:12、13)。今日、私たちの誰がそのような境遇にあるでしょうか。

しかしながら、使徒はこのような奮い立たせる説教の中で、初代教会の信徒たちに対して(そして今も私たちを)、イエスにある信仰を守り、今は天の聖所におられるイエスを見つめ続けるように強く訴えかけています。

輝かしい始まり

この説教を理解し、私たちの生活に生かすためには、使徒から手紙を受け取った信徒たちが置かれた当時の状況と歴史を知る必要があります。

問1 
ヘブライ2:3、4を読んでください。最初に改宗したヘブライ人の聴衆はどのような経験をしましたか。

この聖句は、ヘブライ人への手紙の聴衆がイエスの説教を直接聞いたのではなく、彼らに新しい「救い」のメッセージを語った他の宣教者たちからこの福音を聞いたことを示しています。パウロもまた、宣教者たちが「確かなもの」として示したメッセージを、神ご自身もまた、「しるしと不思議な業」をもって「証し」されたと述べています。これは神が、彼らの中に「聖霊の賜物」を分け与え、しるしやその他の力ある業によって、経験によって福音の確信を与えられたことを意味します。新約聖書は、新しい土地に福音を宣教するに当たって、しばしばこのような奇跡的な癒やし、悪魔払い、そして聖霊の賜物の注ぎなどのしるしが与えられたことを記しています。

初代教会において神はエルサレムの使徒たちに聖霊を注ぎ、それによって彼らは、他国の言葉で福音を語り、奇跡を行うことができました(使徒2、3章)。フィリポはサマリアで同じような奇跡を行い(同8章)、ペトロはヤッファとカイサリアで(同9、10章)、そしてパウロは小アジアとヨーロッパで、その宣教活動を通じていくつもの奇跡を行いました(同13〜28章)。これらの力ある業は経験による確証として「救い」のメッセージ、すなわち神の国の樹立と罪の宣告からの救いと悪の力からの解放を確かなものとしました(ヘブ12:25〜29)。

聖霊は初代教会の信者たちに罪の赦しの確信を与え、それによって彼らは裁きを恐れることがなく、その祈りは大胆で確信に満ちたものとなり、その信仰経験は喜びにあふれました(使徒2:37〜47)。聖霊はまた、悪の力の奴隷となっていた人々を解放しました。これは、神の力の悪の力に対する優位性の証拠であり、彼らの人生にすでに神の国が樹立されていることを示しました。

葛藤

信者たちはキリストを信じる信仰を言い表し、教会に加わることによって、自分たちが社会とは異なることを示すことになりました。残念ながら、その違いは彼らの住む共同体とその価値観を暗黙のうちに否定することになり、争いの種となってしまいました。

問2 
ヘブライ10:32〜34 と13:3 を読んでください。ヘブライ人への手紙の聴衆〔信者〕たちは、回心後にどのような経験をしましたか。

ヘブライ人への手紙の読者たちは、反対者たちによって扇動された群衆の手によって罵倒され、乱暴されます(使徒16:19〜22、17:1〜9)。役人たちは、罰を与えたり投獄したりする権限を持っており、しばしば十分な証拠がないまま、正当な法的手続きを踏まずに実行することもありました(同16:22、23)。

問3 
ヘブライ11:24〜26 と1 ペトロ4:14、16 を読んでください。モーセの経験とペトロの手紙一の読者の経験から、クリスチャンが迫害される理由をどのように理解することができるでしょうか。

「キリストの苦しみにあずかる」とは、自分とキリストを重ね合わせ、そのつながりがもたらす恥や虐待に耐えることを意味しました。クリスチャンに対する世間の反感は、彼らの際立った宗教的献身の結果でした。人間というのは、自分が理解できない宗教的習慣や、自分にうしろめたさや恥を感じさせる生き方や道徳観に腹を立てるものです。〔ローマの歴史家、政治家〕タキトゥスは、紀元1世紀の中頃までに、クリスチャンは「人類の敵」であり、有罪に値する者たちだと考えていました(アルフレッド・J・チャーチ、ウィリアム・J・ブロドリブ共訳『タキトゥス全集』収載の『年代記』第15巻44節1項)。クリスチャンを訴えた本当の理由が何であれ、それは確かに誤りであり、多くの初代教会のクリスチャンたちは、その信仰のためにパウロが記しているような苦しみに遭ったのでした。

倦怠感

ヘブライ人への手紙の読者たちは、社会の拒絶と迫害にもかかわらず信仰を守り、キリストへの献身を確かなものにしていました。しかしながら、長い目で見ると、このような対立は犠牲を伴うものでした。彼らはよく闘い、勝利を得たのですが、同時に疲弊していたのです。

問4 
ヘブライ2:18、3:12、13、4:15、10:25、12:3、12、13、13:1〜9、13を読んでください。信者たちはどのような問題に直面していましたか。

ヘブライ人への手紙は、手紙の読者たちが引き続き困難の中にあったことを告げています。言葉とその他の手段で彼らの名誉への攻撃も続いていました(ヘブ13:13)。まだ投獄されている信者もいました(同13:3)。おそらく教会は経済的にも心理的にも消耗していたでしょう。彼らは疲れ果て(同12:12、13)、気力を失いそうになっていました(同12:3)。

勝利の興奮が過ぎ去った後、人間や共同体は心理的に防御のための緊張が緩みます。そして敵の反撃に対して無防備な状態になります。個人や共同体が、差し迫った脅威に立ち向かうことは、二度目のほうがより難しいものです。

列王記上19:1〜4を見ると、エリヤもこの状態を経験したことが記録されています。「ところが、大いなる信仰と輝かしい成功の後によくあり勝ちな、反動的な気持ちがエリヤを襲っていた。彼はカルメル山において始まった改革が、長続きしないのではないかという絶望感に陥った。彼はピスガの峰まで高められたのであったが、今は谷間に落ちていた。彼は全能者の霊感を受けて、最もきびしい信仰の試練に耐えたのである。しかし、イゼベルのおどしが耳に鳴りひびき、サタンが今なお、この邪悪な女の策略によって、勝ち誇るかのように見えたこの失望の時に、彼は神に対する信頼を失った。彼は著しく高められたので、その反動もはなはだしかった。エリヤは神を忘れて、遠くへ逃げ去って行った。そしてついに、荒涼とした荒野にただ1人でいるのに気づいた」(『希望への光』452ページ、『国と指導者』上巻129ページ)。

一致団結する

使徒は読者たちに、彼らの立場に立ってどのような助言をしたでしょうか。私たちはヘブライ人への手紙から私たち自身のために何を学ぶことができるでしょうか。神はエリヤがその失望から立ち上がるために、どのように彼をお助けになったかを詳しく見てみましょう。

問5 
列王記上19:5〜18 を読んでください。主の僕エリヤの信仰を回復するために神は何をされましたか。

カルメル山での出来事の後の、エリヤに対する神の対応は興味深いものです。なぜなら、そこには極度の疲労の中にある者、信仰を取り戻そうともがいている者に、優しい思いやりと知恵をもってお仕えになる神の姿があるからです。初めに主はエリヤに食物と肉体的な休息をお与えになり、彼の肉体的必要にお応えになります。その後洞穴で、主は優しく彼をお叱りになります。「エリヤよ、ここで何をしているのか」。そして主がご目的を成就するためにどのように働かれたかについて、彼がより深く理解できるよう導かれます。主は風の中にも、地震の中にも、火の中にもおられず、静かな小さな御声の中におられました。それから神はエリヤになすべき仕事を与え、安心をお与えになります。

問6 
ヘブライ2:1、3:12〜14、5:11〜6:3、10:19〜25 を読んでください。パウロは信者たちにどのような助言をしていますか。

ヘブライ人への手紙全体を通して、使徒は読者たちが本来の力と信仰を取り戻すためにさまざまな勧告をしています。彼が強調していることの一つは、仲間の信者たちの物質的な必要に応えることです。彼は互いにもてなし、獄にいる者たちを訪ねるように勧めます。それは彼らが必要とする物を提供することを含みます。更に読者たちが金銭に執着しないように勧め、神が彼らを置き去りにされないことを忘れないよう訴えます(ヘブ13:1〜6)。パウロはまた、信者たちが次第に「押し流され」(同2:1)、「信仰のない悪い心を抱く」(同3:12)ことのないよう叱咤激励し、信仰の理解を深めるよう勧めます(同5:11〜6:3)。彼はまた、教会の集会に出席することの重要性を強調します(同10:25)。まとめると、彼は信者たちに一致団結するよう、互いに励まし合い、愛し合い、そして良き業に励むように勧めます。しかし同時に、イエスと、主の彼らのための天の聖所での奉仕を高く掲げています。

終わりの時代

問7 
ヘブライ1:2、9:26〜28、10:25、36〜38、12:25〜28 を読んでください。パウロはここで、特に時代に関して何を強調していますか。

使徒はこの箇所でとても重要な要素を強調しており、それが彼の勧告に緊急性を持たせています。それは、読者たちが、まさに終わりの時代に生きているということ(ヘブ1:2)、そして主の約束は成就しようとしていること(同10:36 〜38)です。興味深いことに、パウロは手紙の中で、読者をカナンの国境を前に約束の地に入ろうとしていた荒れ野の世代に重ね合わせています。

「もう少しすると、来るべき方がおいでになる。遅れられることはない」(ヘブ10:37)。そして彼は、「しかし、わたしたちは、ひるんで滅びる者ではなく、信仰によって命を確保する者です」(同10:39)と言って彼らを勇気づけます。この最後の勧告は読者たちに、そして私たちに、神の民が神の約束の成就の直前に経験する危険について思い起こさせます。

民数記はまさにこのことについて語っています。聖書の記録によれば、イスラエルは約束の地に入る直前に二度、重要な挫折を経験します。最初は民数記13章と14章に記録されている、幾人かのリーダーたちが民の内に広めた疑いであり、それが原因でイスラエルの信仰は危機に瀕します。その結果、民は新しいリーダーを選び、カナンを目前にしながらエジプトに戻る決断をします。

二度目は、バアル・ペオルでイスラエルが陥った肉欲と偽りの礼拝です(民24、25章)。バラムはイスラエルに呪いをもたらすことができませんでしたが、サタンはイスラエルを偽りの礼拝と罪に引き込むために性的な誘惑を用いました。そして、彼らは神の反感を買うことになるのです。

パウロはヘブライ人への手紙の読者に両方の危険を警告しています。第一に、信仰を堅く保ち、イエスに目を注ぐように勧告しています(ヘブ4:14、10:23、12:1〜4)。第二に、不道徳と貪欲に対して勧告し(同13:4〜6)、最後にリーダーたちを見倣い、彼らに従うよう勧告しています(同13:7、17)。

私たちの死の状態についての理解を確認しましょう。死んで目を閉じ、次に目を開けたときは再臨であることを私たちは知っています。そうだとすれば、私たちは、誰もが皆「終わりの時代」に生きていると言えないでしょうか。

さらなる研究

デイビッド・A・ダシルバは、初代教会のクリスチャンがなぜ迫害されたのかを明確に説明しています。「当時のクリスチャンたちが実践していた生き方は、反社会的で、国家を転覆させかねないものと考えられた。神々への忠誠は、敬虔に犠牲を献げる場に集うことによって表され、それは国家、権威、友人、家族への忠誠の象徴であると見なされた。神々への礼拝は、社会の安定と繁栄を維持している人間関係への献身の象徴であった。それまでの慣習を絶つことによって、クリスチャンたちは(ユダヤ人のように)法律に違反する可能性のある、ローマ帝国を打倒する危険分子であるとの嫌疑をかけられていた」(『感謝の内に耐え忍ぶ』12ページ、英文)。

「気落ちしている者に対して、信頼できる救済策がある。それは信仰と祈りと行いである。信仰と活動は、日毎に増大する確信と満足とを与える。あなたは不吉な予感に恐れを感じ、失望落胆に陥ろうとしているであろうか。一見絶望的で、最悪の事態にあっても恐れてはならない。神を信じよう。神はあなたの必要を知っておられる。神はすべての力を持っておられる。神の無限の愛と憐れみは、消耗することがない。神はその約束をなし遂げられないのではないかと恐れてはならない。神は永遠の真理である。神は、神を愛する人々と結ばれた契約を変更なさらない。そして神は、忠実なしもべたちが必要とするだけの能力をお与えになる。使徒パウロは、次のようにあかししている。『「わたしの恵みはあなたに十分である。わたしの力は弱いところに完全にあらわれる」。……だから、わたしはキリストのためならば、弱さと、侮辱と、危機と、迫害と、行き詰まりとに甘んじよう。なぜなら、わたしが弱い時にこそ、わたしは強いからである』(Ⅱコリント12:9、10)」(『希望への光』454ページ、『国と指導者』上巻133、134ページ)。

*本記事は、『終わりの時代に生きる─ヘブライ人への手紙』からの抜粋です。

聖書の引用は、特記がない限り日本聖書協会新共同訳を使用しています。
そのほかの訳の場合はカッコがきで記載しており、以下からの引用となります。
『新共同訳』 ©︎共同訳聖書実行委員会 ©︎日本聖書協会
『口語訳』 ©︎日本聖書協会 
『新改訳2017』 ©2017 新日本聖書刊行会

関連コンテンツ

よかったらシェアしてね!
目次