あなたを解放する10の愛の言葉

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第三条からのメッセージ

名前の重み

あなたは、あなたの神、主の名を、みだりに唱えてはならない。主は、み名をみだりに唱える者を、罰しないで置かないであろう。出エジプト記20:7(口語訳)

名前というものは、人を呼ぶための単なる記号ではなくて、大変重みのあるものです。

自分と関係のある人たちの名前を次々に呼んでみると、その一つ一つに違った響きがありますよね。そして、名前の響きだけでいろいろな気持ちが引き出されてきます。

名前は、その人の人格そのものですから、その呼び方によって、相手との関係が見えてきます。

あなたは、ご自分の両親をどのように呼んでいますか。おとうさん、おかあさん、あるいはそれに類する呼び方をしているでしょう。

けっして、名前で呼ぶことはしないのではないでしょうか。わたしの父の名は、哲夫でしたが、生涯、一度も哲夫と呼んだことはありませんでした。

だれをどのように呼ぶか、ということは相手との関係が顕著に現れてきます。

年上の人や目上の人に対する呼び方と、年下あるいは目下の人に対する呼び方とは、おのずと区別します。

神に対しても同様です。神のみ名を口にする、ということは、わたしたちの信仰生活に深いかかわりがあることなのです。

クリスチャンにとっては、神を「天のおとうさま」「神さま」「父なる神」と呼ぶのが普通です。

イエス・キリストに対しては、「イエス様」や「主よ」と呼ぶこともあるでしょう。

神を呼ぶ場合、その表現よりも、どんな時にどんな気持ちでみ名を呼ぶか、ということが問われています。

神のみ名をみだりに唱える

それでは、「神のみ名をみだりに唱える」とは、どうすることでしょうか。

「みだりに」という言葉は、ヘブル語では「実体を伴わない」という意味です。実質の伴わない、むなしい偽りの、取るに足りないことをあらわしています。

つまり十戒の第三条は、ほんとうに神のことを思っていない浅はかな誠意のない気持ちで、神の名を呼んではならないと言っているのです。

昔、たまたまテレビで「イエス玉川」というお笑い芸人の漫談を見たことがあります。神父のような格好をし、手には聖書をもって、舞台に出てきます。そして、神や聖書のことばを、笑いのネタにした漫談でした。

信仰をもって間もない頃でしたが、不愉快な気分になったことを覚えています。

大いなる神、偉大な創造者を、罪深い人間が笑いのネタにする、これは冒涜であり、大きな罪です。これはみ名をみだりに唱える典型的な例の一つです。

神や神のみ言葉、そのほか神に属するものを笑いのネタにしている人の心には、神という名はきわめて軽い響きを持つものになっていることでしょう。

自分が心から信頼し、愛し、命をかけて従って行きたい、と思うような存在ではないでしょう。

いえ、心で神の存在を否定しているからこそ、できるのだと思います。

神のみ名を軽んじて軽々しく口にし、みだりに唱える人は、自らの神への信頼も信仰も失ってしまうことになるのです。

本気で信じ、信頼し、尊敬しているなら、決してそんなことはできないからです。

このように、神のみ名をみだりに唱えることは、その人の人生に重大なマイナスの影響を与えることになるのです。だからこそ、神は「み名をみだりに唱えるな」と言われているのです。

ブラジルではポルトガル語が使われていますが、そこでは「神があなたをのろうように」という罵り言葉があるそうです。

ブラジルで宣教師として働いてその後、帰国された先輩牧師の奥さまが、「み名をみだりに唱えてはならないという戒めが向こうに行ってよくわかりました」と言われていたことを覚えています。

ほかにも日常会話の中にあまりよくないというか、むしろ人をのろったり、罵倒したり、けんかをしたりする場面で、神のみ名がしばしば使われているそうです。

こうしたことは、すべて、み名をみだりに唱えることになります。

聞くだけで従わない

また、神のみ言葉を聞くだけで、従おうとしないのも、神のみ名をみだりに唱える生き方になります。

主の言葉がわたしに臨んだ、「人の子よ、……あなたの民の人々は、かきのかたわら、家の入り口で,あなたの事を論じ、たがいに語りあって言う、「さあ、われわれは、どんな言葉が主から出るかを聞こう」と。彼らは民が来るようにあなたの所に来、わたしの民のようにあなたの前に座して、あなたの言葉を聞く。しかし彼らはそれを行わない。彼らは口先では多くの愛を現すが、その心は利におもむいている。エゼキエル33:23,30,31(口語訳)

預言者エゼキエルに向かって、神が語られたこの言葉のように、当時のイスラエルの民は口先では多くの愛をあらわしますが、神に従おうとしませんでした。

「主よ、主よ」と言いながら、従わないのは神のみ名をみだりに唱えることです。神を軽んじ、辱めることなのです。

そうすることはその人自身を、救いにふさわしくない者にしてしまう恐ろしい罪です。だから、主はこのような生き方を禁じておられるのです。

神を知れば……

わたしたちは、すばらしい神を知っています。いや、すばらしい神に知られています。これは、本当にうれしいことであり、幸せなことです。

神は、ご自身がわたしたちに正しく知られ、わたしたちとの愛と信頼にあふれる、豊かな交わりを望んでおられるのです。

神を知れば、神を愛するようになる

エレン・ホワイト、『各時代の希望』上、4ページ

本当に、神は知れば知るほどすばらしいおかたです。

神を知って、もっと神を愛し、信頼するようになり、愛と信頼と尊敬、親しみ、また感謝をこめて、真心から神を呼び求めるようになることが、わたしたちの祝福となるのです。

わたしたちが、神のみ名をみだりに唱えて、神の本当の姿を見失ったり、神を軽んじるようになったりすることを、神は望まれません。なぜなら、それらはわたしたちにとって、災いだからです。

ですから、本当の神をもっともっと知ることを求めましょう。そして、神への愛と信頼と感謝をこめて、心から神を呼び求め、真心から従うものでありたいと思います。

神を正しく知れば知るほど、わたしたちは、もっとふさわしく神のみ名を口にするようになれるに違いありません。

そばにおられる神

古川第一郎という牧師先生が、遠方に住んでいるある方のカウンセリングを、二年間、電話でしたことがあったそうです。うつ病の方でしたが、今はもうすっかりよくなられました。

その方が治ったとき、「あなたが治りはじめたのは、どういうきっかけがあったからでしたか」と聞いてみたそうです。すると、彼女はこう答えました。

「わたしは、神を近くに感じる時もあるし、遠く感じてしまうこともあるのですが、以前は、近く感じる時は近くにいて、遠く感じる時は実際に遠くへ行ってしまったように思っていました。でも本当は、わたしが近く感じようと遠く感じようと神はいつもそこにいらっしゃるということが、ふっとわかった時からいっぺんによくなってしまいました」(古川第一郎、『「十戒」にこめられた神の愛』53ページ)。

もちろん、お医者さんの治療やカウンセリングなど、積み上げてきたものはあったわけですが、このことがいやしへの決定的なきっかけとなったのです。

感情というものは、ときにはうそつきです。神を遠くに感じてしまうことがあっても、それとは関係なく、神はいつもそばにいてくださいます。

神のみ名を呼ぶときに、いつも信仰を働かせて、神がつねに共にいてくださることを、またわたしたちの呼びかけに耳を傾けてくださっていることを思い出したいと思います。

そうすることで、わたしたちが神のみ名を呼ぶときの意識が変わります。

口癖になってしまうならば

さて、先ほどブラジルの話をしましたが、アメリカでもイエス・キリスト(ジーザス・クライスト)という言葉を非常に悪い意味で、口汚い言葉として使うことがあるそうです。

そんなふうにキリストの名前を使っていると、真剣に祈るときにも「イエス様」と言ったとたんに苦々しい響きがついてきてしまうようになります。

また、英語には「God knows」という表現があります。

これは日本語に訳すと「神が知っている」となりそうですが、そうではなく「だれも知らない」という意味になるのです。

つまり「神さまは知っているけれど、神なんていないのだから、知っている人はだれもいない」というわけです。

考えてみると、本当は「神さまが知っている」という表現はすばらしい言葉です。聖書にもよく「主はご存じです」と出てきます。

しかし、そのような箇所を読む時にも、ふだん悪い意味で「God knows」などと使っていると、むなしい響きがついてきてしまいます。

神が、わたしたちに語りかけておられる言葉に耳を傾けてください。

悩みの日にわたしを呼べ、わたしはあなたを助け、あなたはわたしをあがめるであろう。詩篇50:15(口語訳)

「悩みの日にわたしの名前を呼びなさい」と神は招いています。

疲れた時、つらい時、悲しい時、むなしい時、わたしの名前を心を込めて呼びなさい。

そうすればわたしはあなたに必要な助けを与える。そうすれば、あなたはわたしの愛とぬくもりを感じることができるだろう。

でもただ一つだけ気をつけなさい。もし、わたしの名を軽々しく、みだりに口にしていると、わたしの名を呼んでも空しく響くだけになってしまう。だからこれだけは気をつけなさい。

心に神の必要を少しも感じていないのに、慣例的なきまり文句を繰り返すのは、異邦人が「くどくどと祈る」願いと同じ性質のものである。

エレン・ホワイト、『祝福の山』、106ページ

形式的な祈りもまた、神のみ名をみだりに唱えることになるのです。

神のみ名を心を込めて呼べるようになるには、訓練が必要です。それは、神を知ることと深いかかわりがあります。

主のみ名を呼ぶ訓練

ある俳優が、一人の牧師が講壇で「神は愛です」と一言いうのを聞いて、とても感動したそうです。

じつはその牧師は、集会の会場に来るために乗った飛行機が遅れて、説教の時間が過ぎてもまだ着かなかったのです。

今日はもう説教が聞けないのではないかと、みんなが思い始めたころにやっと彼は到着しました。

もちろん長い話などできず、ただ「神は愛です」と、これだけを何回か繰り返して言ったのでした。しかし、それだけでそこにいた人々は十分に満たされました。

それで、そこにいた俳優が「わたしもそういう語り方をしたいので教えてください」と牧師に頼んだのですが、牧師は教えられなかったそうです。

それはどんなに優秀な俳優が、どんなに練習してもできることではありませんでした。

ただ、本当に心の底から神を愛だと知っている者が、そしてそれが体にしみついてそれだけに頼って生きるようになった者が、聖霊に導かれてみ名を呼ぶ時にだけ響くものだったのです。

ですから、わたしたちの心がいつも豊かに満たされているための一つの秘訣は、神の名前を呼ぶときに、その中に含まれている豊かな恵みを一瞬にして思い出すように自分を訓練することです。

「神」と呼んだときに、神の愛とあわれみも、力も、義も聖も、真実も同時に思い出して喜びが沸いてくるように訓練するのです。

「イエス様」と呼んだときに、十字架で血を流してくださってわたしの罪を赦し、抱きしめてくださるそのキリストの愛を感じることができるように訓練するのです。

訓練とは

その訓練とは具体的にどのようにするのでしょうか。

1. 神のみ名を、否定的な文脈では決して用いない

まず第一に、神のみ名を、否定的な文脈では決して用いないということです。

「神はどうせわたしのことなんか、なんとも思っていないんだ」とか、「神はいったい何を考えているんだ」とか、「神なんているんだろうか」などと、神も悲しみ、自分も悲しくなってしまうようなことを言ってしまうことはないでしょうか。

このようなことは聖書にも出てきます。いくつかの例を見てみましょう。

シオンは言う。主はわたしを見捨てられた わたしの主はわたしを忘れられた、と。イザヤ49:14(新共同訳)

この言葉に対して、主はただちに答えられます。

女が自分の乳飲み子を忘れるであろうか。
母親が自分の産んだ子を憐れまないであろうか。
たとえ、女たちが忘れようとも  
わたしがあなたを忘れることは決してない。
見よ、わたしはあなたを 
わたしの手のひらに刻みつける。イザヤ49:15ー16(新共同訳)

現実には、否定的なことを思ってしまうこともあるかもしれません。

抑えきれず否定的な思いや言葉が出てしまった時には、すぐにこう言いたいと思います。

「ああ、こんなことを思う、こんなに失礼なわたしをも愛してくださることを感謝します。こんなわたしをそれでも見捨てないで、どこまでも愛してくださることを本当にありがとうございます。イエス様、ごめんなさい」

このように、否定的な自分を神の肯定的な愛で包んでいくと、またぬくもりを感じるようになり、み名はあたたかい響きを持つようになります。

2. 冗談で神のことを言わない

第二は、冗談で神のことを言わないことです。冗談で言っていると、神のみ名に意識しなくても、軽々しい響きがついてきてしまいます。

3. 主のみ名を賛美する

第三に、主のみ名を賛美することです。これが一番大切です。

「主のみ名をみだりに唱えてはいけない」の逆は、「み名を心から賛美しなさい」ということです。

主を喜び、祝うことこそ、わたしたちの力の源です。反対に、主のみ名をみだりに唱えることは、わたしたちの力をなくさせる原因となります。

わがたましいよ、主をほめよ。わがうちなるすべてのものよ、その聖なるみ名をほめよ。
わがたましいよ、主をほめよ。そのすべてのめぐみを心にとめよ。詩篇103:1ー2(口語訳)

「わがうちなるすべてのもの」とは、内臓のことですから、これは、わたしの胃も腸も、肝臓も腎臓も、すべて神をたたえるように、ということです。

「そのすべてのめぐみを心にとめよ」は、新改訳では「主の良くしてくださったことを何一つ忘れるな」。

また、新共同訳では「主の御計らいを何ひとつ忘れてはならない」となっています。

神のしてくださったこと

それでは、神のしてくださったこととは何でしょう。

主はあなたのすべての不義をゆるし あなたのすべての病をいやし、
あなたのいのちを墓からあがないいだし、いつくしみと、あわれみとをあなたにこうむらせ、
あなたの生きながらえるかぎり、良き物をもってあなたを飽き足らせられる。
こうしてあなたは若返って、わしのように新たになる。詩篇103:3ー5(口語訳)

神は、み子イエスをこの世に送ってくださいました。そして、あの十字架にかけてまで、わたしたちの罪を赦してくださいました。

これまで、わたしたちはどれだけ病気にかかってきたでしょうか。それらのすべての病をいやしてくださったのは神です。

さらに、み子イエスの死と復活によって、信じるわたしたち永遠の命を与えてくださいました。墓の向こうの輝かしい希望がわたしたちに与えられています。

地上の何ものも、これにまさる希望を与えることができません。

巨万の富も絶大な権力も、世界のすべての本を読み尽くすほどの知識を手に入れたとしても、決して手に入れることのできないものです。

わたしたちは、こんなにすばらしい最高の祝福をいただいているのです。これらのことを、いつも覚えているでしょうか。

わたしどもは神の愛の確証を集めて、つねにそれをながめるようにいたしましょう。

エレン ホワイト『キリストへの道』154ページ

今までの生涯の中でいただいた一つ一つのことを忘れないでいたら、わたしたちの心にはどんなに喜びが満ち溢れるでしょうか。

わたしたちは、本当によく忘れてしまいます。

自然にまかせていたら、すぐに忘れてしまうのです。ですから、日記であれ、何であれ、神の恵みを数えて、簡単にメモしておいて、くりかえし思い起こすことをおすすめします。

讃美歌の歌詞は、かみしめてみると、ほんとうにすばらしいです。

神のすばらしいみわざが、短い言葉で、美しく、まとめられています。この歌詞をかみしめて歌うことができたら、わたしたちはさらに、もっと力強く神を賛美することができます。

讃美歌は、信仰告白です。

ですから、その歌詞を味わいながら、自らの信仰の告白として一言一言、味わいかみしめながら、歌うならわたしたちの信仰生活は一変するでしょう。

昔、清野郷児(さとじ)先生が、讃美歌の138番は、歌えない、歌おうとすると涙がでてきて、どうしても歌えないと言われていたのを思い出します。

讃美歌138番

1 ああ主は誰がため 世にくだりて、
かくまでなやみを うけたまえる。

2 わがため十字架に なやみたもう 
こよなきみめぐみ はかりがたし。

3 とがなき神の子 とがを負えば、 
照る日もかくれて やみとなりぬ。

4 十字架のみもとに こころせまり、 
なみだにむせびて ただひれふす。

5 なみだもめぐみに むくいがたし、 
この身をささぐる ほかはあらじ。

上原令子さんの歌で「わたしさえ」という歌の歌詞もすばらしいです。

わたしさえ

もう二度と 
あなたのもとへ もどれないほど 背を向け

もう二度と 
あなたの名も 呼べないほど 悲しませて

そんなわたしさえ 愛してくれるのは あなただけ
そんなわたしさえ 愛してくれるのは あなただけ

もう二度と 
あなたの愛に帰れないほど 心冷たくて

もう二度と 
あなたの声が聞こえないほど 遠く離れて 

そんなわたしさえ 愛してくれるのは あなただけ
そんなわたしさえ 愛してくれるのは あなただけ

わたしさえ わたしさえ ……

すばらしいですね。このような詩を味わっていると、神の愛と主イエスの憐れみが心に迫ってきます。

神は、敵対していたわたしたちでさえ、愛してくださいました。

わが主イエスは、わたしがまったく神とは無縁に生きていたときに、わたしのところまで降りてきてくださり、わたしのために、十字架にかかって命を投げ出してくださいました。

神の愛、イエスの愛は決して変わりません。

そして、わたしはあなたを決して見捨てないと言ってくださるのです。

神のみ名を呼ぶときに心の中で起こってくる、力強さ、心強さ、喜び、あたたかさなどが強められていくように、どんなときにもその清いみ名を、うやうやしく心からの愛と信頼、尊敬や感謝をもって、心をこめて呼びたいと思います。

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