あなたを解放する10の愛の言葉

第一条からのメッセージ

目次

はじめに

「あなたを解放する10の愛の言葉」とは、十戒のことを指しています。

今回からシリーズで、この十戒について見ていきます。神の愛から出た命の言葉で、みなさんのこれからの人生があらゆる罪としがらみから解放され、愛と命にあふれる新しい人生を歩まれますように!

キリストの再臨がいよいよ間近に迫っている、この終末時代、神がお語りになった十戒の重要性がいよいよ増し加わっています。

十戒がどんなに大切であるか、この戒めの意味を味わい、これに喜んで従うときに、どれほどの祝福になるかということを、またそうさせて下さる神の約束に信頼して生きることのすばらしさを、シリーズを通じて、共に学んでいきたいと思います。 

序文

十戒は、出エジプト記20章に出てきます。

まずは序文に当るところを学びたいと思います。

神はこのすべての言葉を語って言われた。
出エジプト20:1(口語訳)

「戒め」ではなく、「言葉」です。

「十戒」とは、英語でも、”The Decalogue”と言い、「十の言葉」という意味です。十の戒めではありません。

むしろ、その内容から説明の言葉を付け加えるとすれば、「十の自由の言葉」「十の解放の言葉」となるものです。

わたしたちが「十戒」と言っているものは、縛ったり、制限したりするものではなく、解放するものであるということを覚えていきましょう。

しかも注目すべきは、この十戒は神ご自身が、直接お語りになった言葉であるということです。

預言者を介さずに直接、お語りになりました。人があいだに入っていないのです。

これを聞き流したり、無視したりすることは、神を軽んじることであり、不幸なことでもあります。

なぜでしょうか。この 神から与えられた十の言葉は、愛のことばであり、幸せをもたらす言葉です。そして、真の解放をもたらす命の言葉だからです。

十戒の目的

申命記10章12節、13節の聖句をみると、神が十戒をイスラエルの民に与えた目的がわかります。

イスラエルよ、今、主があなたに求められる事はなんであるか。ただこれだけである。すなわちあなたの神、主を恐れ、そのすべての道に歩んで、彼を愛し、心をつくし、精神をつくしてあなたの神、主に仕え、また、わたしがきょうあなたに命じる主の命令と定めとを守って、さいわいを得ることである。申命記10章12節、13節(口語訳)

神によって救われた者に、神が願うことはただ一つ、幸せになることなのです。

だからこそ、まだ神の家族に加わっていない人たちが、キリストを信じて神の家族となることを、神がどれだけ切に望んでいるかもわかると思います。

この命令と定めの中に、十戒も含まれているのです。ご自分の民に、神がお語りになった命令も定めも、すべては幸せをもたらすためでした。

人を造られた神は、人がどのように生きれば、幸せになれるかを知っておられます。

その道を具体的に示したものの中で、十戒はその代表と言えます。

ですから、十戒は、わたしたちを愛する天の父なる神様が、わたしたちに幸せをもたらすために、お語りになった愛の言葉なのです。 

大切な十円玉

ある日、施設の先生が一人の発達障害の女の子に算数を教えようとしました。

500円、100円、10円と並べて、「はい、この中で一番大きなお金はどれ?」と聞くと、予想を裏切って、彼女は「これ」と十円玉を指差しました。

「そうじゃないでしょ。この一番大きい500円玉でしょ」と言ってから、「もう一度聞くよ。一番大切なお金はどれ?」と尋ねると、やはり「これ」と、十円玉をさすのです。

何度繰り返しても同じことになってしまうので、ここまで教えてきてもむだだったのかなあ、と思いながら、「どうしてそれが一番大切なの」と先生は理由を聞いてみました。

すると、こういう答えが返ってきたのです。

「だって、これを電話の中に入れると、お母さんの声が聞けるんだもん」

この女の子が電話をかけると、受話器の向こうからお母さんの声が聞こえてきます。

「いいか、食べ過ぎるんじゃないよ。よく眠りなさいよ。先生の言うことをよく聞くんだよ」と娘の無事を願い、成長を願う母親の心遣いが届くのです。

愛の言葉が伝わってくるので、彼女はこの電話をかけられる十円玉が大好きでした。

この女の子のお母さんの言葉、これがわたしたちにとっては十戒なのです。

だから、詩篇作者は「あなたのみ言葉はいかにわがあごに甘いことでしょう。蜜にまさってわが口に甘いのです」(詩篇119:103)と詠ったのです。

垣根となる十戒

律法が与えられたのは、「〇〇せよ」「〇〇してはいけない」と拘束することが目的なのではありません。

神がこのような律法をくださったのは、わたしたちが悪い道に行かないように、倒れてしまわないように守ろうとしておられる愛ゆえです。十戒は、悪魔の攻撃や誘惑から、わたしたちを守る垣根の役割を果たすのです。

サファリパークに行ったことのある人は、想像していただけると思います。公園の中では、猛獣たちが、自由に歩いたり、寝そべったりしています。人間は専用の車に乗って、野獣のすぐそばまで近づくことができ、車から出ない限りは安全です。

しかし、一歩でも車の外に出れば、とたんに命の危険にさらされるのです。

サタンの攻撃からわたしたちを守るために、神が用意してくださった車が十戒です。その戒めに従う者は、サファリパークの猛獣のあいだを進む車の中と同じように、安全なのです。

神の自己紹介

わたしはあなたの神、主であって、あなたをエジプトの地、奴隷の家から導きだした者である。出エジプト20:2(口語訳)

十の言葉をお語りになる前に、ご自分がどのようなものであるかということを、まず神は示されました。神の自己紹介です。

イスラエルの民は、エジプトで400年の間、奴隷生活をしていました。当時の世界最強の国エジプトから自ら逃れることは、不可能でした。全能の神の大いなる力がなければ、決して、彼らは自由になれなかったでしょう。

イスラエルの民に、パロが出て行くように命じるまで、どれだけの不思議が行われたか、皆さんはご存知でしょう。神の特別な助けがなければ、決して救われることはありませんでした。

イスラエルの民が奴隷として苦しみ、その苦しみのあまりに上げたうめきを聞いて、神は助け出してくださったのです。

神は、祈りにもならない、民のうめきを聞いて下さる神です。

多くの日を経て、エジプトの王は死んだ。イスラエルの人々は、その苦役の務めのゆえにうめき、また叫んだが、その苦役のゆえの叫びは神に届いた。神はかれらのうめきを聞き、神はアブラハム、イサク、ヤコブとの契約を覚え、神はイスラエルの人々を顧み、神は彼らをしろしめされた。(御心にとめられた、新共同訳)出エジプト2:23ー25

こうして今、イスラエルの民はその奴隷生活から解放されて、荒野で自由に神を礼拝できるようになったのです。

救われたものに与えられた言葉

十戒、十の言葉は、自由になった者、解放された者、救われた者に与えられた言葉であることを、しっかりと覚えましょう。

ひとたび解放された者がふたたび奴隷になることがないように、この十の言葉、愛の言葉が語られているのです。

わたしたちも、かつては罪の奴隷でした。しかし、神の御子イエス・キリストの十字架による救いにあずかって、罪から解放され、自由を頂いています。

そのわたしたちが、いつまでも神と共に生きる自由を喜び、楽しみ、真の幸福を味わい続けるために、命の道として十戒が与えられているのです。

神はわたしたちを愛するがゆえに、わたしたちの罪のために、罪のない神の御子を罪とされました。こうして、わたしたちを罪と滅びから救ってくださいました。

これほどに愛してくださった神様が、この十の言葉をお語りになったのです。これは、まさに愛の言葉なのです。

第一の戒め

解放宣言

では、最初の言葉(第一の戒め)を味わいましょう。

あなたはわたしのほかに、なにものをも、神としてはならない。出エジプト記20:3(口語訳)

このようにキリスト教は、自分以外の神を認めないから、非常に排他的で冷たいと誤解しておられる方がよくおられます。しかし、これは排他的で独善的な言葉ではなく、わたしたちを捕えているあらゆるものからの解放宣言なのです。

わたしたちは、いろいろなものにとらえられてしまうので、自由になりたいと思いながらも不自由です。

この最初のことば、すなわち第一条は、そのようなわたしたちにむかって「あなたはそれらのものにとらわれなくてもよい」と言っている解放宣言なのです。

もうすこし具体的に言えば、「わたしたちを不安にするいろいろな思い煩いからの解放宣言」なのです。

すべてのことを解決する力など、もともとないにもかかわらず、力を振り絞ってしようとすると、どうしてもそれが思い煩いになります。

そして、自分の力だけでは解決できないので、安心させてくれそうなものをいろいろと持ってくるのです。

たとえば、絶対頼りになるという人を見つけてきて、「この人さえいれば安心」と思おうとしたり、あるいはお金をたくさん貯めて、「これだけあればもうだいじょうぶだ」と考えようとします。またある人は、何か技術を身につけて「これができれば安心だ」と自分に言い聞かせるかもしれません。

もちろんこれらは大切なことですが、しかし、この中のどれ一つとして不安のつきまとわないものはないのです。

頼りになる人もいつまでもそばにいてくれるとは限りません。お金だっていつどんなふうに失うことになるかわかりません。特殊な技術や職を持っていても、自分が病気になったりすれば役に立たなくなります。

ですから、頼りになると思っているものをもっていればいるほど、それだけ不安の種も増えてくるというのが現実なのです。

心の病の具体的な症状の現れ方は一つ一つ違っても、その底を流れるものには、一つの共通点があるといわれています。それは、不安です。

不安は、安心の根拠となるものをたくさん持つことによって、かえって強くなります。言い換えれば、複数の神様をもつときに、わたしたちは不安になるのです。

ある人が、お金も、友達も、仕事を持っているからこれで安心、と思っているとします。するとお金がなくなると不安になります。仕事がうまくいかなくなると不安になります、たとえ、ほかがあってもです。

このように安心の根拠となるものが多ければ多いほど、不安材料も多くなるのです。

しかし、この不安の解決は、わたしたち人間の問題の根本的な解決につながります。では、どのように解決すればよいのでしょうか。

神とする

あなたは、わたしのほかになにものをも神としてはならない。出エジプト20:3(新共同訳)

「神とする」とは、どういうことでしょうか。

あるとき、一人の子供が突然泣き出しました。お父さんが行ってみると、つぼの中にお金を落とした子どもが、それを取ろうとして手を突っ込み、今度は手が抜けなくなってしまって泣いていたのです。

それでお父さんとお母さんが一生懸命引っ張ってみたのですが、どうしても抜けません。

どうして抜けないのだろうとよく聞いてみると、子供はつぼの中でしっかりとお金をつかんで手を握りしめていたのです。そこで「それを離しなさい」と言いました。

すると子供は、「いやだよー。これは僕のだから」と答えるのです。

「いや、離さなきゃ、手が抜けないんだから離しなさい。」

「いや。もったいない。これがどうしてもほしい!」

それでも、やっと説得して手を離させたら、すっと抜けたそうです。

これと同じように、もし何かをしっかりと握り締めて、「これだけは取ってもらっちゃ困る」と、絶対に離すまいとしているものがあったら、それがその人の神なのです。

しがみついて離れない、絶対に捨てられない、と考えている対象があるなら、その人はそれを神としているのです。そして、そのような神を持っていると、それを失うことを恐れてわたしたちは不安に落ち込むのです。

聖書は人間が頼みとしがちなものを、指摘してくれています、代表的なものは、人間でしょう。

しかし、聖書はこう言っています。

あなたがたは鼻から息の出入りする人に、たよることをやめよ、このような者はなんの価値があろうか。イザヤ2:22

「鼻から息の出入りする人」は、やがて、息をひきとる日がくる。死ぬ存在である人に頼ると、一緒に倒れてしまうのです。

わたしが大学時代にお世話になった、京都の下宿のおばさんは母親にすがっていました。その母親が亡くなってから、彼女は心をわずらってしまいます。

主はこう言われる、「おおよそ人を頼みとし肉なる者を自分の腕とし、その心が主を離れている人は、のろわれる。彼は荒野に育つ小さい木のように、何も良いことの来るのを見ない。荒野の、干上がった所に住み、人の住まない塩地にいる。エレミヤ17:5ー6

人間を神のごとくあがめ、人間にしがみつくことが、いかに恐ろしいことであるかを、身にしみて感じたことがあります。人にしがみつき、その人の言いなりになり、自分の判断能力を捨てて、ロボットのようになることは恐ろしいことです。それは不毛の人生であり、神の祝福から遠い人生である、と神ご自身が仰せになっています。

人に頼る人生とは、必ずしも、他人だけをさすのではありません。自分自身を頼みとする人生もあります。しばしば、能力がある人は、そうなりがちです。

預言者エレミヤが、次のように言っています、

主はこう言われる、「知恵ある人はその知恵を誇ってはならない。力ある人はその力を誇ってはならない。富める者はその富を誇ってはならない。誇る者は、これを誇とせよ。すなわち、さとくあって、わたしを知っていること、わたしが主であって、地に、いつくしみと公平と正義を行っている者であることを知ることがそれである。わたしはこれらの事を喜ぶと、主は言われる。」エレミヤ9:23ー24(口語訳,新共同訳は22ー23節)

「誇ってはならない」とは、頼みにしてはならない、ということです。自分に自信のある人は、自分を頼みとします。

しかし、神は言われます、自分の知恵や権力や、富に頼ってはならない。富や、知識や、力を頼みとするなら、その人生もまた不毛である。なぜなら、そういう人は自分を救うことのできる唯一のお方、命の神に頼ろうとしないからです。

この世を本当に支配しているのは、王や政治家または権力者ではなく、天地創造の神、主であることを知ることを神は喜ばれます。それがわたしたちにとって一番、幸せをもたらす生き方だからです。

愛と知恵と力に満ちあふれた天地万物を創造された神の御手の中に、わたしたちはあり、持ち運ばれ、導かれているのです。このことを信じると、人生はずいぶん楽になります。

不安の中で

ある人が就職試験で面接を受けました。そして採用されるかどうかの通知は一週間後ということで帰ってきたのですが、その一週間の間、彼は本当に不安で夜も眠れません。

彼にとって自分の運命を握っているのは、その面接をした人事部の人だったからです。その人に自分の将来を握られているように感じていたので、不安で仕方がなかったのです。

しかし、同じような状況でまったく違った反応をした人もいました。その人は、クリスチャンで、スリランカ人の男性でした。

彼は、今している仕事だけでは娘さんの学費に間に合わないということで、もう一つ仕事を探しておられました。彼の教会の牧師も、その面接に行ったのですが、そのときもやはり、返事は後日ということでした。

牧師は、かなり厳しい状況に思えたので、もしだめだったらがっかりするのではないかと、彼を心配していました。ところが、帰りの車の中で彼は「神さまが一番良いことをしてくださるのだから、何も心配することはない」と笑顔で言ったのです。彼の運命を握っていたのはその面接をした人ではなく、その背後におられる人間を超えた神様でした。

結局、仕事は断られてしまいました。しかし、そのときも彼は言いました。

「心配しなくていいよ。神様が一番いいことをして下さるから!」

彼の最善を願って、一番良いことをしてくださる全能にして、愛なるお方だけが彼の神だったのです。だから、彼はそのような状況の中でも平安でした。

わたしたちの将来を握っているのは、だれなのか。それは命の神であり、ひとり子を賜ったほどに愛してくださっている全能の神、あわれみ深い愛の神さまなのです。

イスラエルの家よ、陶器師の手に粘土があるように、あなたがたはわたしの手のうちにある。エレミヤ18:6(口語訳)

「イスラエルの家」とは、現代でいえば、クリスチャンひとりひとりのことです。陶器師である神さまは、粘土であるわたしたちクリスチャンを、すばらしい作品に作り上げるためにその手の中にしっかり握っておられます。

ですから、わたしたちに、苦しいことや悲しいことがあったとしても、それはよりすぐれた作品にされる過程(プロセス)であるということです。

わたしたちをその手に握っておられる神様は、先の先まで見通しておられます。そして、わたしたちの救いのために、万事を益となるように導いてくださるのです。毎日、この神に信頼し、おゆだねしながら、進む人生には平安があります。必ず実を結ぶ人生となるのです。

いつのまにか、自分自身をだれかほかの人の手や物に、ゆだねていることはないでしょうか。気をつけなければなりません。

「あなたは、わたしのほかに、なにものをも神としてはならない」と神は仰せになります。

これは、わたしたちが、いろいろなものにしがみついて、かえって不安を増してしまうことのないように、あなたを造り、生かし、愛して下さる神、あなたをその手の中に握っておられる神に頼りなさい。ほかのどんなものにもすがる必要はない、余計な心配や不安をかかえなくてもよい、という神の愛から出た解放の言葉なのです。

劣等感からの解放

十戒は、また、わたしたちを劣等感からも解放してくれます。

劣等感を持つ理由は、本当の神以外の神をもつところにあるからです。それは、「この世のものさし」という神です。学歴や能力、地位、またお金、というこの世のものさしで、自分を測るとみじめになります。

そのものさしで自分より上の人を見たときには、劣等感に悩まされ、この人は下だと勝手に決め付けた人に対しては、優越感を持ちます。しかも、そこには喜びはありません。

横を見てどんぐりの背比べをしているのです。劣等感が強いと、人間関係にも破壊的な影響をもたらします。

「そのようなものさしを持ってはならない。わたしのほかに神があってはならない」と神は言われたのです。

神の尺度だけで見たとき、この世のものさしから解放されます。どんぐりの背比べの時には、横を見ていましたが、神がごらんになるときは上からごらんになりますから、高いも低いもありません。この神の目を通してすべての人を見、また自分を見ていく時に、すべてはすばらしく、大切で、無限の価値があるのです。

恐れるな。わたしがあなたを贖ったのだ。わたしはあなたの名を呼んだ。あなたはわたしのもの。……わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。イザヤ43:1,4

「あなたはわたしのもの」と神が言ってくださっています。これが、わたしたちの安心の根拠なのです。「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」と神が、言ってくださるのです。

「わたしには価値がある。可能性がある。わたしは神に愛されているのだ。ほかのだれとも比較する必要がないのだ」と、神の言葉を聞いて、わたしたちは自分の尊厳を保つことができるでしょう。

人がなんと言おうと、わたしたちは神の目に尊いのです。このわたしのために、神の御子が命まで捨ててくださったほどに、価値があるのです。これを決して忘れてはなりません。

人間を神のごとくあがめて、自分はどうしようもないだめ人間で価値がない、と思い込まされている人たちもいます。みなさんの中に、もしそういう人がいらっしゃるなら、聖書の御言葉を口ずさんでください。

あなたは、わたしのほかになにものをも神としてはならない。おおよそ主にたより、主を頼みとする人はさいわいである。彼は水のほとりに植えた木のようで、その根を川にのばし、暑さにあっても恐れることはない。その葉は常に青く、ひでりの年にも憂えることなく、絶えず実を結ぶ。エレミヤ17:7ー8(口語訳)

神に信頼して生きる人生は、実り豊かな人生です。暑いとき、日照りの年つまり、人生の試練のときにも、実を結び続けるのです。この言葉を日々思い起こし、この神に信頼して、平安と希望に満ちた人生を歩まれますように、心よりお祈りします。    

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