第四条からのメッセージ
安息日を覚えて、これを聖とせよ。
今回は、十戒の第4条を共に学んでみたいと思います。
20:8安息日を覚えて、これを聖とせよ。 20:9六日のあいだ働いてあなたのすべてのわざをせよ。 20:10七日目はあなたの神、主の安息であるから、なんのわざをもしてはならない。あなたもあなたのむすこ、娘、しもべ、はしため、家畜、またあなたの門のうちにいる他国の人もそうである。 20:11主は六日のうちに、天と地と海と、その中のすべてのものを造って、七日目に休まれたからである。それで主は安息日を祝福して聖とされた。出エジプト記20章8―11(口語訳)
十戒の第4条において、神は、週の第七日目を、聖なる神に属する安息日として、他の日とは区別するように、お命じになっています。
十戒の中で、「覚えなさい」と命じられているのは、この安息日に関してだけです。この安息日はわたしたちが意識していないと、やがて忘れてしまい、ほかの日と全く同じようになってしまう。もはや安息日であることを忘れてしまう、ということを神さまはご存知なのです。
これは、わたしたちの救い、平安と幸福にとって、きわめて重大なことであるゆえに、神さまは十戒の中心に置かれ、特別に「覚えよ」と仰せになったのです。
なぜなら、この日を忘れることは、この日を創造された神を忘れることを意味しているからです。
エレン・ホワイトは以下のように記しています。
安息日は、神を天地の創造者としてさし示すことによって、真の神とすべての偽りの神々とを区別している。
『人類のあけぼの 上巻』358ページ、『明日への希望』156ページ
わたしたちの救いと幸福と平安は、本当の神を知ること、この神を信じること、この神に信頼することにかかっているのです。
そのことをわたし自身、最近、しみじみと実感しています。
まことの神を知る
イエス・キリストは、弟子たちと過ごした最後の夜、神に捧げた祈りの中で、このように祈っておられます。
永遠の命とは、唯一のまことの神でいますあなたと、またあなたがつかわされたイエス・キリストとを知ることであります。ヨハネ17:3(口語訳)
「まことの神さまがどういうお方であるか」を体験的に知った者は、もはや知らない時と同じではありえないのです。それほど、決定的な影響をわたしたちの人生に及ぼします。
まことの神を知ることは、それほどわたしたちの救いと幸福と平安に深くかかわっているのです。
十戒の第4条の重要性は、「だれがわたしたちの神であるかを知らせようとしている」というところにあります。
出エジプト記20:11には、わたしたちの神は、天と地とその中のすべてのものを創造された方、つまり、わたしたちをも創造された方である、とはっきりと告げられています。
それだけではありません。申命記5:12―15にも、十戒が記されているのですが、ここには、安息日を守る事を、神がお命じになっている、もう一つの理由が、記されています。
あなたはかつてエジプトの地で奴隷であったが、あなたの神、主が強い手と、伸ばした腕とをもって、そこからあなたを導き出されたことを覚えなければならない。それゆえ、あなたの神、主は安息日を守ることを命じられるのである。申命記5:12―15(口語訳)
わが安息日を聖別せよ。これはわたしとあなたがたとの間のしるしとなって、主なるわたしがあなたがたの神であることを、あなたがたに知らせるためである。エゼキエル20:20(口語訳)
ここでは、わたしたちの神は、わたしたちを罪から救ってくださった救い主である、ということを知らせてくれます。
わたしの神であり、あなたの神は、生命の創造者であると同時に罪から救ってくださり、永遠の命をたまわった救い主である、ということも安息日の戒めは知らせているのです。
安息日を覚えよ、と命じておられる神が願っておられることは、わたしたちが、自分に命を賜り、生かしていて下さるお方であり、さらにわたしたちを罪から救い、永遠の命を賜わった神を覚える、ということです。
わたしたちは、自分の神を決して忘れてはなりません。本当の神でないものを神とあがめるところに、さまざまな問題が生じるのです。
十戒の第4条を知らない、守らないことの最大の問題は、わたしたちが自分に命を与え、生かしていて下さる神を忘れ、さらにわたしたちを罪から救って永遠の命を賜る神を見失って、滅びに至らせてしまう、ということです。
神さまはわたしたちが、偽物に頼る必要はない、あなたを生かしていてくださる神こそ、あなたを救うことができる神である。だからこの安息日を覚えるごとに、あなたを造り、生かし、そして救う神を忘れてはならない、と命じておられるのです。
本当にわたしたちを生かすことも罪から救うこともできないすべての偶像、それはかたちある像だけでなく、人間に頼ることや自分の考え、価値観にしがみつくことも含みますが、そのすべてから、これはわたしたちを解放してくれるのです。
さらにこの世界とそこに住む人間を創造された神を忘れてしまうと、わたしたちは、「自分がどこから来たか」がわからなくなり、人生の意味がわからなくなり、また人生の目的もわからなくなります。
その意味でも天地創造の神であり、救いの神でもある方を覚えさせる、この第4の言葉、十戒の第4条は、とても大切な戒めなのです。
天地創造からある安息日
安息日は十戒の中で、初めて語られ、設けられたわけではありません。実は、天地創造のときに、制定されています。安息日に関する最初の記録は、創世記の第二章に出てきます。
創世記の第一章に、この地球が、どのようにして、人のすみかとなるように創造されたかが記されています。
第一日目の光に始まって、人間が生きていくのに必要なものが、日を追うごとに創造され、整えられていきます。
空気、水、食物となる穀類、果物、堅果類、その他の植物、太陽、月、鳥や魚や昆虫、家畜やその他の動物、最後に創造されたのが人間でした。すべてができました。
しかし、神さまは、この最初の創造の働きを閉じられませんでした。創造のわざはまだ続いたのです。
最後に神さまは、第七日という時間を創造されました。六日目に創造された人間のために設けてくださった、安息日でした。第七日目の安息日は、神が人間と交わり、人間を祝福しようとして設けてくださった、特別な時間でした。
ですから、神さまが賜わった、この安息日という時間は、わたしたちにとって、特別に大切な日なのです。
こうして天と地と、その万象とが完成した。神は第七日にその作業を終えられた。すなわち、そのすべての作業を終って第七日に休まれた。 神はその第七日を祝福して、これを聖別された。神がこの日に、そのすべての創造のわざを終って休まれたからである。創世記2:1―3(口語訳)
休まれた
神は、この日に三つのことをされました。つまり、休まれた、祝福された、聖別された、です。
神がお休みになったのは、一つは、わたしたちの模範としてでした。神ご自身が休まれたように、わたしたちも休むように招かれているのです。神がお休みになったのは、疲れをいやすためではありませんでした。
神は、「地の果の創造者であって、弱ることなく、また疲れることなく、その知恵ははかりがたい」(イザヤ40:28) とあるとおりです。では、なんのために休まれたのでしょうか。
それは、神がご自身のかたちにかたどって創造された、人間と交わるためでした。
神は、わたしたちとの交わりのために、特別に安息日を創造し、わたしたちを、ご自身との交わりに招いていてくださるのです。
全宇宙の創造者、保持者、支配者、王の王、主の主、このお方とお交わりできることの祝福と特権を、わたしたちはどれだけ理解しているでしょうか。
今日、このお方を礼拝し、このお方の御声を聴き、感謝と賛美をささげ、また祈りをささげることは、人間に与えられた、最高の特権であり、また祝福なのです。
祝福された
神が祝福、という言葉を用いられた時、それは、豊かな命を生み出すことと深く関連しています。神は人間を創造された後、「神は彼らを祝福して言われた、『生めよ、ふえよ、地に満ちよ』」(創世記1:28)と命じておられるからです。
神さまは、この安息日を、神のご計画に従って守る者に、豊かな命、愛と喜びと平安、希望、いやしと慰め、励ましと勇気、知恵と力、などなど、心豊かに、明るく、力強く、いきいきと生きていくために必要なものを豊かに与えようとしておられるのです。
聖とされた
聖とされた、とは、神さまが、安息日を、ご自身の日として、他の日から区別してくださった、ということです。それは、また、神さまが特別にこの日にご臨在下さる、ということをも意味しています。
この日は、神さまの日であり、神さまの方から、わたしたちに近づいてくださり、わたしたちの心に特別に豊かに臨んでくださる日なのです。
言い換えれば、神さまは安息日を創造することで、この日に神さまご自身を、わたしたちに与えておられるのです。
安息日は、向こうからやってきます。あたかも、神さまが、わたしたちと交わるために、わたしたちを祝福するために、ご自身の方から近づいてくださるかのようにです。事実、そのとおりなのです。
ですから、この日にわたしたちも、日常の仕事から離れて、心を神に集中し、心から創造の神、救いの神を礼拝し、感謝と賛美をささげ、また神のみ言葉を学んだり、神の造られた自然を楽しんだりするなら、わたしたちは、豊かな祝福を受けることができるのです。
聖書に出てくる最初の安息日の記録を見るだけでも、安息日が特別な日であり、この日を神さまにならって、仕事を離れ、神さまを礼拝し、神さまとの交わりに過ごそうとする人たちにとって、どんなに祝福になるかが少しはわかっていただけたのではないでしょうか。
6日間の働き
六日のあいだ働いてあなたのすべてのわざをせよ。七日目はあなたの神、主の安息であるから、なんのわざをもしてはならない。出エジプト記20:9,10(口語訳)
十戒の第4条の後半で、神さまは、六日間の生き方についても述べていることに注目しましょう。
ここで、神さまは、六日間は働いて、七日目は休め、と仰せになっています。
エレン・ホワイトは次のように述べています。
神の愛によって、労働の必要は制限されている。
エレン・G・ホワイト『教育』297ぺージ
神は、六日間は働くように、とお命じになりましたが、七日目は休めと仰せになりました。
イエスさまは、「安息日は人のためにあるもの」(マルコ2:27)と仰せになりました。
すべての人のために、神は安息日を設けられました。仕事をし過ぎないように、制限を設けてくださったのです。働きすぎることから、わたしたちを解放しようとしておられるのです。
ワーカホリックということばを聞いたことがあると思います。仕事中毒のことです。休みなく、自分に鞭打って働き続けることです。
このワーカホリックについて医学的にわかってきたことは、このような人たちには、高血圧や若年性心臓発作で亡くなる方が非常に多いということです。
また「燃えつき症候群」という病気もあります。本当に優秀で、一生懸命働いている模範的なサラリーマンや主婦、先生、献身的なボランティアなどが、突如として気力がなくなり、燃え尽きたようになってしまうのです。
正当な評価が受けられなかったり、ふさわしい見返りが受けられなかったというようなことが引き金になるそうですが、本当に力が、全然出なくなってしまう病気なのです。
このように、心や体が衰弱してしまうことが、休まないで働く人の運命だそうです。
ですから働きすぎの人はぜひ気をつけていただきたいのですが、体に一番いいのは毎週一回休むことだそうです。それも何もしないで、ごろっとしているのはあんまり休んだことになりません。
仕事などでいつも使っている脳の部分は休ませて、それとは違う部分を使うのがいいのです。そして普段なおざりにしている大切なことを、その日、自分にしてあげるのです。
ですから、第七日目の安息日は、ただ寝て過ごすための日ではありません。そのように過ごしても、心身をリフレッシュすることはできません。本当に、心身をリフレッシュするのは、日常使っていない部分を使って、活動をする、礼拝や奉仕がそれです。
週日休むことなく働いている人が、安息日には、教会にきて、奉仕のわざに一日を使っておられる方を多くおられることを知っています。
大阪センター教会の牧師だったころ、ある信徒の方に、「大変じゃないですか。疲れませんか」と聞きますと、このように答えられました。
聖書の勉強をしていると、頭の切り替えができて、かえって気分が変わっていいんだ。
安息日を、礼拝とみ言葉の学び、また教会員との交わり、さらに家族との交わり、自然を楽しむ、というようにすることは大きな祝福なのです。
神さまがわたしたちに求めておられることは、すべて、わたしたちの祝福にならないものはないのです。
安息日の戒めが六日間の働きと、第七日の休みとを命じておられる、ということをすでに指摘しました。言い換えれば、安息日の戒めは、わたしたちが、一週間をどのように生きるか、を教えているのです。
7日目を真の安息の日とするためには、他の六日間を、神中心に生きる、神にゆだねて平安に生きることなしには得られません。そういう意味で、安息日は、わたしたちが他の六日間を、どのように生きているか、わたしたちの霊性を判断するバロメーターになるのです。
どういうことか、といいますと、本当に七日目の安息日に、神さまに心を集中し、神との交わりを楽しもうと思うなら、普段の日も神さまを意識し、仕事であれ、勉強であれ、何をしていても、神のために生きていないと、安息日だけ神さま中心に生きることはできない、ということです。
この逆に、ふだん、商売のことばかりに心を奪われていると、安息日もまた、礼拝していながら、商売のことを考えるというようになる、ということです。聖書にその例が出ています。
あなたがたは言う、「新月はいつ過ぎ去るだろう。そうしたら、われわれは穀物を売ろう。安息日はいつ過ぎ去るだろう、そうしたら、われわれは麦を売り出そう。」……アモス8:5(口語訳)
もし、毎日の生活で、神さまを第一としながら、神さまと交わり、神さまと共に生きているなら、安息日に仕事から解放されて、神さまにのみ心を集中して礼拝し、また神さまと交わることは、最高の大きな喜びとなるのです。
真の安息日の喜びにあずかろうと思うなら、ほかの六日間、真剣に、神さまとの交わりを体験していく必要があるのです。そういう意味で、安息日は、わたしたちの霊性をはかるバロメーターであります。
新約聖書を見ると、ユダヤ人たちは、聖書の安息日の戒めを、細かい規則でがんじがらめにしており、安息日がきわめて窮屈な日になっていたことがわかります。
彼らにとって、安息日には、平安がなく、自由がありませんでした。イエスさまは、当時の慣例を破り、あえて、安息日に人をいやしたり、弟子たちが麦の穂を食べることを認めました。
そして「安息日は人のためにあるもので、人が安息日のためにあるのではない」と教えられました。こうして、イエス様は、安息日を本来の安息日に回復なさったのです。
安息日は、それを正しく守るものに、真の安息をもたらします。それでこそ、本当の安息日、安息の日となるのです。
安息を得る
では、わたしたちはどのように、安息を得るのでしょうか。
どうか、あなたはわたしの戒めに聞き従うように。そうすれば、あなたの平安は川のように、あなたの義は海の波のようになり、イザヤ48:18(口語訳)
わたしの戒めに耳を傾けるなら あなたの平和は大河のように 恵みは海の波のようになる。イザヤ48:18(新共同訳)
あなたがわたしの命令に耳を傾けさえすれば、あなたのしあわせは川のように、あなたの正義は海の波のようになるであろうに。イザヤ48:18(新改訳第3版)
真の安息は、わたしたちが神さまに従う時に与えられるのです。この従順は、信仰による従順なのです。
神さまがどういうお方かを知って、心から信じ、信頼するからこそ、従うのです。
すなわち、真の安息は、創造の神を信じ、この神が、わたしを造ってくださったゆえに、わたしの事をなにもかもご存じであると信じて、信頼することによって得られます。
真の安息は、また神がわたしたちを罪から救うために命まで投げ出してあがなってくださった、それほどに愛してくださっている、と信じ、信頼することによって得られます。
真の安息は、この神への信頼からくる、真心からの服従によってもたらされるのです。
その反対に、「悪い者には平安がない」と主は言われます(イザヤ48:22)
安息日を守るということは神が造り主、自分はこの神に造られ、生かされている存在であることを決して忘れない、ということを意味しています。
安息日を守るということは、自分が常に神によらなければ生きられない存在であることを意識し、感謝し、寄り頼むことを学び続けることを意味しています。
安息日を守るということは、神が救い主であり、わたしはこの神によって、罪から救われた者であり、このおかたによる以外に救いはないということを、いつも覚えて感謝することを意味しています。
こうして、ご自身の命まで投げ出してくださった神の愛を日々かみしめて喜び、この愛の神に信頼して過ごす、そのクライマックスが安息日なのです。
終わりの時代の試金石
この日は再臨前の終末の時代には、神への忠誠の試金石となる、と黙示録に預言されています。
ですから、この真理は、神を知らない人たちに対してのみならず、真の安息日を見失って、伝統的に、習慣的に、教えられるままに日曜日を聖日と信じているクリスチャンたちにも伝えなければならない大切な真理なのです。
安息日を守る重要性は、神がそう仰せになったから、という理由に尽きます。信仰が問われているのです。
今、神への忠誠を体験し続けることが、最終時代の試練に対する備えとなります。
安息日を聖とされた神は、わたしたちに平安を与えることを望んでおられるお方、真の安息を与えることのできるお方です。
神は、信頼して従うすべての者に天来の平安を与えようとしておられる。この神の平安にあずからせていただきましょう。人知では到底量り知ることのできない平安をいただきましょう。この光に照らされ、これを受けいれた人たちは幸いです。
創造の神、救の神、愛と憐れみに富んでおられる神が、わたしたちに、安息日を覚えて、これを聖とせよ、とお命じになっているのです。そうさせていただきましょう。
わたしたちの神は命の神、救いの神です。このことを決して忘れず、愛してくださる神、命まで投げ出して救ってくださった救い主に信頼し、毎日、喜んで従っていくことの中に真の平安があることを、世にあかしするものとならせていただきましょう。
わたしたちの家族や友人たち、まだこの安息を知らない人たちを、キリストのもとにお連れして、共に、真の安息を体験していただきましょう。