あなたを解放する10の愛の言葉

目次

第十条からのメッセージ

十の愛の言葉

十戒もいよいよ最後の戒めとなりました。最初に、私は、十戒を、「あなたを解放する10の愛の言葉」として紹介しました。

わたしはあなたの神、主であって、あなたをエジプトの地、奴隷の家から導きだした者である。出エジプト記20:2

今、イスラエルの民は、その奴隷生活から解放されて、荒野で自由に神を礼拝できるようになったのです。

つまり、十戒、十の愛の言葉は、自由になった者、解放された者、救われた者に神がお与えになった言葉であることを、まず、しっかりと覚えましょう。言い換えれば、この十の愛の言葉は、ひとたび解放された者が、再び奴隷になることがないように、と神がお語りになった、愛の言葉なのです。

わたしたちも、かつては罪の奴隷でした。しかし、神の御子イエス・キリストの十字架による救いにあずかって、今、罪から解放され、自由を頂いているのです。その私たちが、いつまでも、神と共に生きる自由を喜び、楽しみ、真の幸福を味わい続けるために、命の道として、十戒が与えられているのです。

神はわたしたちを愛するがゆえに、わたしたちの罪のために、罪のない神の御子を罪とされました。こうして、わたしたちを、罪と滅びから救ってくださいました。

これほどに愛してくださった神様が、この十の言葉をお語りになったのです。これは、まさに愛の言葉なのです。

律法が与えられたのは、『何々せよ』『何々してはいけない』と拘束することが目的なのではありません。

神様がこのような律法をくださったのは、わたしたちが悪い道に行かないように、わたしたちが倒れてしまわないように守ろうとしておられる愛の現れなのです。十戒は、悪魔の攻撃や誘惑から、わたしたちを守る垣根の役割を果たすのです。

むさぼってはならない

10の愛の言葉の最後はこれです。

あなたは隣人の家をむさぼってはならない。隣人の妻、しもべ、はしため、牛、ろば、またすべて隣人のものをむさぼってはならない」。(申命記5章では、妻、家、畑、あとは同じ)出エジプト記20:17

この戒めは、人間の造った法律にはありません。十戒だけに記されている、ユニークなものです。この戒めは、この世に存在するあらゆる法律や戒律と決定的にちがうところです。

人間の造った法律には、欲望を戒める掟はありません。たとい作ってもだれも取り締まることができません。人間はほかの人の心の中を知ることはできないからです。

しかし、全知全能の神は、人の心をご存知であるからこそ、この戒めをお与えになっているのです。だから、神は、すべての罪の原因となっている欲望、むさぼりの罪を戒めておられるのす。すべての罪は心の欲から生じることをご存知だからです。

エレン・G・ホワイトは、次のように説明しています。

第10条は、あらゆる罪の根絶をはかるもので、罪の行為が生じる根源の利己的欲望を禁じている。神の律法に従って、他人の所有に対してよこしまな欲望をいだかないものは、同胞に対して悪い行為を犯すことはしないであろう。

『希望への光』157、『人類のあけぼの』上、361

人間が罪を犯すのは、心に欲望を抱く事から始まる、ということが、新約聖書でもしてきされています。

人が誘惑に陥るのは、それぞれ、欲に引かれ、さそわれるからである。 欲がはらんで罪を生み、罪が熟して死を生み出す。ヤコブ1:14,15

この御言葉は、すべての罪の原因は、欲、欲望、むさぼりにあることを教えてくれています。

神は、この欲に支配されるのを禁じておられます。すべては欲望、むさぼりから始まって罪が生れるからです。

神は、人の心をご存知であって、罪の原因となるむさぼり、欲望から清めようとしておられるのです。

隣人の家をむさぼることは、恨みやねたみ、また盗み、あるいは誹謗中傷につながります。

隣人の妻をむさぼれば、心で姦淫を犯すことになります。

隣人の所有物をむさぼれば、盗みにつながります。

この事に関連するのですが、神は、貪欲は偶像礼拝である、と教えています。

だから、地上の肢体、すなわち、不品行、汚れ、情欲、悪欲、また貪欲を殺してしまいなさい。貪欲は偶像礼拝にほかならない。これらのことのために、神の怒りが下るのである。コロサイ3:5

貪欲は偶像礼拝、偶像礼拝は自己崇拝である、ということ思い出して下さい。

貪欲に支配されている人は、自分を神としているのです。その人の関心は、わたし、わたしです。

貪欲に対して警戒するように、とキリストは次のように、お話しされました。

それから人々にむかって言われた、「あらゆる貪欲に対してよくよく警戒しなさい。たといたくさんの物を持っていても、人のいのちは、持ち物にはよらないのである」。そこで一つの譬を語られた、「ある金持の畑が豊作であった。 そこで彼は心の中で、『どうしようか、わたしの作物をしまっておく所がないのだが』と思いめぐらして 言った、『こうしよう。わたしの倉を取りこわし、もっと大きいのを建てて、そこに穀物や食糧を全部しまい込もう。そして自分の魂に言おう。たましいよ、おまえには長年分の食糧がたくさんたくわえてある。さあ安心せよ、食え、飲め、楽しめ』。すると神が彼に言われた、『愚かな者よ、あなたの魂は今夜のうちにも取り去られるであろう。そしたら、あなたが用意した物は、だれのものになるのか』。自分のために宝を積んで神に対して富まない者は、これと同じである」。ルカ12:15-12

この金持ちは、自分の事しか考えていませんでした。神の事を思わず、働いてくれている人たちの事も思わず、ただひたすら自分の老後の安楽な生活を確保することだけに心を傾けています。自己中心性が露骨に出ています。

彼の人生設計には神が存在していませんでした。人生の終りには死が待っていることを忘れていました。死に対する備えがない人生は、たとえ、この世的に成功しているように見えても、失敗です。死によってすべてを失うのです。

これは、ルシファーが堕落した時の、考え方に共通していました

黎明の子、明けの明星よ(英語欽定訳では、ルシファー、あけぼのの子よ)、あなたは天から落ちてしまった。もろもろの国を倒した者よ、あなたは切られて地に倒れてしまった。あなたはさきに心のうちに言った、『わたしは天にのぼり、わたしの王座を高く神の星の上におき、北の果なる集会の山に座し、雲のいただきにのぼり、いと高き者のようになろう』。イザヤ14:12-14

被造物である天使ルシファーが、神のようになろうとした自己称揚の精神、そこには、神に生かされている事を忘れ、自分を神とする自己中心の罪が見られます。この自己中心性こそが罪であります。同様に、自己中心な人は、自分が神であるから、常に人と比較して生きる、そこからねたみや恨みや怒り、不満や争いに発展していくのです。

どこにでも貪欲のみにくい足跡が見える。それは、家族の中に不満と争いを起こし、貧者の心に、金持ちに対するねたみと憎しみを起こす。それは、また、金持ちが貧者を、搾取、圧迫する原因でもある。この罪悪は世の中だけにとどまらず、教会の中にも入っている。ここでも、利己心をいだき、強欲で、人を欺き、慈善を怠り、10分の1と、ささげ物」において、神のものを奪うことが、なんと一般に行われていることであろう(マラキ3:8)。

『希望への光』257ページ

この貪欲の中でも、とりわけ注目すべきことは、金銭に執着することです。

「 しかし、信心があって足ることを知るのは、大きな利得である。わたしたちは、何ひとつ持たないでこの世にきた。また、何ひとつ持たないでこの世を去って行く。 ただ衣食があれば、それで足れりとすべきである。 富むことを願い求める者は、誘惑と、わなとに陥り、また、人を滅びと破壊とに沈ませる、無分別な恐ろしいさまざまの情欲に陥るのである。 金銭を愛することは、すべての悪の根である。ある人々は欲ばって金銭を求めたため、信仰から迷い出て、多くの苦痛をもって自分自身を刺しとおした。」(1テモテ6:6-10)

足ることを知ることは、むさぼりを克服する道です。それは、私たちに命を与え、生かし、愛して下さっている神を信じ、この神に信頼することです。神によって置かれている今の自分、状況を最善と信頼して受け入れることです。むさぼりの罪を犯していると不満が生じます。他の人をうらやんだり、ねたんだりします。人にはあって、自分にはないものに心が向けられ、自分を惨めに感じ、神にも不満をいだくようになります。

キリストは、神と富とに兼ね仕えることはできない、と断言しておられます、

だれも、ふたりの主人に兼ね仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛し、あるいは、一方に親しんで他方をうとんじるからである。あなたがたは、神と富とに兼ね仕えることはできない。(マタイ6:24)

金銭をむさぼるなら、神を神として信じ、神に従って生きることは不可能なのです。

わたしがパチンコの奴隷であった時、わたしは、金に支配されていました、損したお金を取り返したい、と思っていました、だから、やめられませんでした。お金に支配されていた私は、お金に仕える奴隷でした。

富を神としているかをどのように知るのか

では、自分が、お金、富を神としているかどうか、をどのようにして知ることができるでしょうかか。

それを知る方法は、什一です。

什一を怠ること、什一に不忠実であることは、神の物を盗むことだ、とマラキ3章に記されています。

あなたがたは、その先祖の日から、わが定めを離れて、これを守らなかった。わたしに帰れ、わたしはあなたがたに帰ろうと、万軍の主は言われる。ところが、あなたがたは『われわれはどうして帰ろうか』と尋ねる。
人は神の物を盗むことをするだろうか。しかしあなたがたは、わたしの物を盗んでいる。あなたがたはまた『どうしてわれわれは、あなたの物を盗んでいるのか』と言う。十分の一と、ささげ物をもってである。
あなたがたは、のろいをもって、のろわれる。あなたがたすべての国民は、わたしの物を盗んでいるからである。 わたしの宮に食物のあるように、十分の一全部をわたしの倉に携えてきなさい。これをもってわたしを試み、わたしが天の窓を開いて、あふるる恵みを、あなたがたに注ぐか否かを見なさいと、万軍の主は言われる。
わたしは食い滅ぼす者を、あなたがたのためにおさえて、あなたがたの地の産物を、滅ぼさないようにしよう。また、あなたがたのぶどうの木が、その熟する前に、その実を畑に落すことのないようにしようと、万軍の主は言われる。 こうして万国の人は、あなたがたを祝福された者ととなえるであろう。あなたがたは楽しい地となるからであると、万軍の主は言われる。マラキ3:7-12

このように、神に信頼するのか、富に信頼するのか、の二者択一を明言されるほどに、神は、富への執着、お金を愛することが、私たちの心をとらえ、私たちが神にのみ信頼することを妨げるものであることを指摘しておられるのです。

むさぼってはならない、との戒めは、まず、自分達の生活と心をふりかえって、自分は神を第一にしているか、本当に神にのみ信頼しているか、を量るバロメーターとして、什一について、自分の心を照らしてみていただきたい。と思います。

このいましめは、私たちの心が、本当に神を愛し、神にのみ信頼しているか、をはかるバロメーターなのです。

神は、むさぼりの罪を指摘するだけでなく、それに勝利する道をも用意しておられます。

自我からの解放、ナンバーワンからオンリーワンへ

ナンバーワンをめざす人生は、人と比較して優劣をはかり、競う人生です。

人と比較するとどうなるでしょうか。人にはあるのに、自分にはないもののことで、隣人をねたんだり、うらやましく思ったりします。さらには、もっと積極的に、隣人のものを奪おうとします。不倫、盗みなどによって、あるいは、悪いうわさ話で中傷し、その評判を傷つけたりすることになります。

ところが聖書を学び、自分をかけがえのない存在として造り、生かし、愛していて下さる命の神、救い主イエス・キリストを信じる者となる時、私たちは、自分が「神の目に高価で尊い」存在であることを発見します。

世界に私という存在はここにしかいない、どの人も、ほかのだれとも比較できない、かけがえのない存在なのだ、ということがわかってきます。私の内臓と人の内臓は、全く別のもので、これを移植しようとすると拒否反逆が起こります。わたしの細胞の一つ一つは、世界のだれとも同じではありません。、神は、私たち一人一人を、実にユニークな存在として、お造りになっているのです、そして、かけがえのない存在として愛して下さっています。

神は、私たち一人一人を、罪と滅びから救うために、かけがえのないひとり子、イエス・キリストを賜りました。そして、わたしたちひとりひとりのすべての罪を神の御子イエス・キリストに置き、私たちすべての者の罪の身代わりとして、御子をさばき、私たちが犯した罪の罰、罪の代価を支払って下さいました。

神は、かけがえのないひとり子、イエス・キリストを犠牲にされるほどに、わたしたちひとりひとりをかけがえのない宝として愛してくださっているのです。

この神を知ること、信じること、これこそ、己を神とする自己中心性から解放する、神の方法なのです。

私もこの神を知って、信じた時、新しい人生を歩み始めました。それは、本当に新しい人生です。

神を知らなかったときには想像もできない人生です。祝福された人生です。

自分が罪の欲望に支配されている時に、私たちは決して自分の力で、自分を救うことはできません。

泥沼に落ちた人は、どんなにあがいても自分の力でその泥沼から抜け出すことはできません。

ただ、助けを叫び求めて、だれかに引き上げていただく以外にありません。

そのために、私たちにできることは、自分の必要を認めて、素直に、正直に、神に助けを叫び求めること、祈ることです。この祈りに応えて下さる神を知る時、あなたは、新しい人生を生き始めることができる。

悩みの日に、わたしを呼べ、わたしはあなたを助け、あなたはわたしをあがめるであろう。詩篇50:15

イエス・キリストを自分の救い主として信じ受け入れる時、私たちの心にキリストがお宿りになって、わたしたちは新しく生まれるのです。

このキリストを信じる者は、神の子として受け入れられるのです。これは驚くべき事です。

私たちが、神の御心に従い、神のご計画を信頼して受け入れるなら、今、置かれている状況を最善とし、どんな状況にあっても、感謝し、喜ぶことができます。そこには、むさぼりの入る余地がありません。

むさぼりの罪に勝利する秘訣をご紹介します。

いつも喜んでいなさい。 5:17絶えず祈りなさい。 すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって、神があなたがたに求めておられることである。テサロニケ第一、5:16-18

これが、むさぼりの罪に勝利する秘訣です。絶えず祈ること、その結果として、与えられるすべての事、置かれるすべての状況を神のご計画と信頼し、すべてを感謝して受け入れること、そうするならば、むさぼりの入る余地はありません。

今が最善、今、神がわたしのために最善を行って下さっていると信頼して喜び、感謝すること、そのように生きるなら、他人をうらやんだり、ねたんだり、ひがんだりする余地はありません。

信心があって足ることを知るとは、このことです。命の神、愛の神、救い主イエスを信じる信仰は、人と比較してねたんだり、ひがんだりする人生とは全く異なるものです。

比較人生はナンバーワンをめざす人生です。しかし、神を信じる人生は、オンリーワンの人生です。

自分のために命まで犠牲にして下さったキリストを自分の救い主と信じる人生は、自分を神に愛された存在として受け入れるので、人と比較する必要がなくなります。自分も神の大切な存在、他の人も同じ神に愛されている、大切な存在です。ですから、その人の幸せを願うことができるし、一緒に喜ぶことができるのです。

わたしも、神を知らない時にはそれができませんでした。常に人と比較していましたから、うらやんだり、ねたんだり、ということが日常でした。信心がある、ということはすばらしいことですね。

あなたが、愛の神の戒めを心に刻み、神に信頼し、神と共に歩まれ、すべての罪から解放されて、感謝と賛美、喜びと平安に満たされた、生きがい溢れる人生を生きる者でありますように、心よりお祈りします。

聖書の引用は、特記がない限り日本聖書協会口語訳を使用しています。
そのほかの訳の場合はカッコがきで記載しており、以下からの引用となります。
『新共同訳』 ©︎共同訳聖書実行委員会 ©︎日本聖書協会
『口語訳』 ©︎日本聖書協会 
『新改訳2017』 ©2017 新日本聖書刊行会

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