あなたを解放する10の愛の言葉

目次

第八条からのメッセージ

「あなたは盗んではならない」(第8戒)

この第八条で、何が禁じられているか、について、

「ハイデルベルク信仰問答」では次のように記されています。

神は、ただに、官憲の罰する、窃盗や強盗を、禁じておられるだけでなく、不正な、目方、物差、枡、品物、貨幣、利息、その他、神に禁ぜられている方法によって、暴力によるにせよ、権利を装うにせよ、隣人のものを、自分のものにしようとする、一切の悪い事、企てをも、盗みと呼ばれるのであります。なお、これらに、すべての貪欲、自分に与えられたものの、不必要な浪費をも、加えるべきであります。

ハイデルベルク信仰問答

盗みにはいくつかあります。まず二つの盗みはすぐ思いつくものですね。

①窃盗や強盗、あるいは万引きなど、文字通りの盗み

②「不正な、目方、物差、枡」という手段を用いた盗み

②「不正な、目方、物差、枡」という手段を用いた盗み

この2番目の盗みについては聖書にも記されています。

互に違った二種のはかり、二種のますは、ひとしく主に憎まれる。箴言20:10(口語訳)

互に違った二種のふんどうは主に憎まれる、偽りのはかりは良くない。箴言20:23(口語訳)

違った秤や、目盛りを変えた物差、大きさを変えた枡を使って人をだますこと。これが「盗み」と呼ばれています。昔は商売相手の階級や身分によって枡を変えた人たちがいて、聖書ではそれが厳しく糾弾されています。

現代では誇大広告がそれにあたります。

ある人は、「巧妙な調子のいい語り口」を「洗練された盗みの方法」と言い換えました。

「そうは言っても商売をするなら多少はそのようなことをしないと……」と言う方もいらっしゃるかもしれません。しかし、実際は、成功したビジネスマンほど正直です。本当の事を言って売ることのできる人こそ本当の実力者です。

ある牧師が、眼鏡をこわしてしまったので眼鏡屋さんにそれを持って行って言いました。「これ、直せるでしょうか。だめだったら買い換えようと思うんですが。」するとその眼鏡屋さんは、「いや、これは直せますから買い換える必要はありませんよ」と言うのです。

その先生は、この次に買う時には、信用できるこの店で買おうと思いました。

このような時に、ここぞとばかりに「買い換えないとだめですね」と言うような人や、はじめにうそをついて売るような人たちは、次から次へと嘘をついていかなければ売れなくなります。

そして、それは結局わかりますから、お客は離れて行ってしまうのです。

また、品物の不正使用や長期借用も盗みです。

③品物の不正使用、また長期借用

会社の電話を私用に使って、電話代は全部会社に払わせること。また、職場の車を遊びに使ってガソリン代を会社につけることもあるそうです。かつて、ニュースで報じられていましたが、自分の還暦祝いのパーティーを、表向きは会社の祝賀会と称しながら、肝心な会社の幹部は一人も招かれず、超豪華なパーティーを開き、費用の7000万円を全額会社に支払わせた、なども典型的な盗みですね。

また、長期借用(人から借りたものを返さないこと)などは、私たちも身に覚えのないことばかりではなくなってくるかもしれませんね。

そのほか、不正乗車(キセル)や収入を正しく申告しないで、その分を脱税すること、会社で、出張費を大目に請求する、高すぎる利息、支払いの不正な延期、経営者と労働者の契約違反、釣銭のごまかしなど。

これらもすべて、盗みです。

④時間を盗むこと 

たとえば、約束の時間に遅れる、相手の事情を無視して電話をすることなど。私自身、突然電話がかかってきて、一方的にしゃべられ、なかなか切ろうとしない、という経験を何度もしたことがありました。

ある時から、こちらの事情を先にお伝えして、時間を限定させてもらうようにしました。そうでなければ、際限なく、一方的に話し続けるからです。相手もようやく理解してくれて、最近は電話もかかることがまれになってきました。

⑤人を盗むということ(自分の利益のために人を利用すること)

神は十戒の序文にあたる、出エジプト記20章2節で、「わたしはあなたの神、主であって、あなたをエジプトの地、奴隷の家から導き出した者である」と自己紹介されました。

この神が、「あなたは盗んではならない」とおっしゃるのですから、それは、「わたしが奴隷であったあなたがた(イスラエル)を解放したのだから、あなたがたがまたお互いを奴隷にするようなことがあってはならない」ということです。

そこには、お互いがお互いを、価高く尊い人間として受け入れ、互に尊重し、助け合い、支え合ってほしい、という神様の願いが現れています。

現在日本には、奴隷制度はありません。しかし、かたちを変えた非公式の奴隷制度は今でもたくさんあるのです。人が人を所有しようとする誘惑は至る所にあります。強い人が弱い人を自分の役に立つように利用するのはその一例です。また、人を人格と人格の交わりの対象としてではなく、自分にとって「役に立つかそうでないか」という目で見るのも、もう一つの例です。

Aさんは小さいころ、親に「できるだけ勉強のできる子と友達になりなさい」と言われたそうです。そしてある一人の親しい友達について、「あの子はできないから、もう遊んじゃだめよ」と言われたそうです。

Aさんはその友達が大好きで、一緒にいると心があたたかくなるような関係を持っていました。成績などは度外視して語り合い、理解し合える友達だったのですが、親としては、「劣等生とは友達になってほしくない。優等生の友達を持ってほしい」と考えたわけです。「優等生とつきあっていれば、すぐに勉強の話になるだろうし、おまえが自転車でどこかに遊びに行こうとするような時にも、「いや,勉強しよう」と言うだろうから、いい影響をたくさん受ける」と言ったそうです。

これもその優等生と言われている子を利用することにほかなりません。つまり道具として友達を所有するのです。これはみな人を盗むということです。

逆に考えれば、私たちは人に盗まれてはいけない、ということにもなります。私たちは人に気に入られたいがために、自分の「利用価値」を高めようとして、できるだけ相手の言いなりになって、自分を失ってしまうことがあります。

人とかかわりを持つときには、相手も自分も、奴隷になってはいけません。お互いを、自由で大切な人間同士として認めあい、お互いが助け合い、支え合い、生かし合うという関係にしなければなりません。

1コリント7章23節には、「あなたがたは、代価を払って買いとられたのだ。人の奴隷となってはいけない。」とあります。

さて、盗みをした人はどんな気持ちになるのでしょうか。ある万引きをした人が、つぎのような質問をしていました。

「万引きをした後の行動が不安です。少しでも気持ちを軽くしたいので回答をお願いします。

去年の12月に万引き(8品)で捕まり、代金を払って、警察署で取り調べをし、その際 前科がつき、解放されました。そして次の年の3月に、2箇所(15品と8品)で、万引きをしてしまい1ヶ月後ぐらいに警察が部屋に来て警察署で取り調べ、調書を書いて解放されました。

それから、その3月のお店2箇所では、電話をし商品の代金を支払うということで話が着いたのですが、

その事を警察に話したら検察に呼ばれるから準備しておいてと言われました。

現在は部屋に戻り普段通りに過ごしています。ここからが質問です。

①確実に検察に呼ばれるのでしょうか?

②もし、呼ばれたとして逮捕されて牢屋とかに入るのでしょうか?

③もし罰金ならいくらぐらいになりますか?

④牢屋とかに入るとしたら何年ぐらい入ることになりますか?

⑤どれくらいの期間拘束されますか?

⑥牢屋とかに入りたくないですが、罪は認めてます。牢屋に入ることから罰金に切り替わるみたいなことは無いでしょうか?

⑦罰金は一括で払うようなのでしょうか?

⑧その他何かコメントがあったら教えてください。」

万引きをした人が、不安や恐れを抱いているのがよくわかりますね。犯罪を犯せば、大なり小なり、似たような経験をするのです。なぜなら、人間は神のかたちにかたどって創造されたからです。

神のかたちにかたどって造られた人間には、道徳性というものが備わっています。正しい事をすれば満足と喜びがあり、間違っていると分かっていることをすれば、良心の呵責を感じ、心が責められるように造られています。

ただ、悪に深く染まっていくと段々麻痺して、感じなくなる、という恐ろしい事になっていきます。そんな人でも、人の物を盗み、相手を悲しい思いをさせたり、不幸にさせたりして、心の底から嬉しく、楽しくなる者はいないはずです。むしろ、不安や恐れや、惨めな気持ち、またむなしさ、を味わうはずです。

神が、「あなたは盗んではならない」と仰せになっているのは、私たちがこのような不安や恐れ、むなしさやみじめさから解放され、輝いて生きるために必要な戒めとして与えて下さったのです。

それはどのように生きることでしょうか?

神が望む生き方

互に愛し合うことの外は、何人にも借りがあってはならない。人を愛する者は、律法を全うするのである。ローマ13:8、9、10(口語訳)

「姦淫するな、殺すな、盗むな、むさぼるな」など、そのほかに、どんな戒めがあっても、結局「自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ」というこの言葉に帰する。愛は隣り人に害を加えることはない。だから、愛は律法を完成するものである。

神は、私たち一人一人に対して、「わたしの目には、あなたは高価で尊い、わたしはあなたを愛している」(イザヤ43:4新改訳)と仰せになっています。さらに、「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互に愛しなさい」(ヨハネ13:34)と仰せになりました。

つまり、隣人を、高価で尊い大切な存在として愛することをキリストは私たちにお命じになっているのです。隣人をそのように大切な者として愛する人は、隣人の持ち物も尊ぶからです。

盗むという事は、「この人のものを盗むなんて心が痛んでできない」というほどに大切な人間として隣人を見ることができないということです。隣人を大切にできないのは、自分を大切にできていないからです。

結局問題は、「自分も含めて人間をどう見るか?」ということなのです。あなたの「人間に対する見積もり」が問われているのです。自分を大切にすることができれば隣人をも大切にするようになり、そうするとどんなかたちでも盗むということはできなくなります。

十戒の第8条は、ただ盗まなければそれでいい、という禁止令でありません。

「盗んだ者は、今後、盗んではならない。むしろ、貧しい人々に分け与えるようになるために、自分の手で正当な働きをしなさい。」(エペソ4:28)

つまり、他の人に与えるために働きなさい、と教えているのです。

「働く」とは「はたを楽にすること」だと言った人がいます。働く目的は与えるためです。

与えたらどうなるでしょうか、

与えよ。そうすれば、自分にも与えられるであろう。人々はおし入れ、ゆすり入れ、あふれ出るまでに量をよくして、あなたがたのふところに入れてくれるであろう。あなたがたの量るその量りで、自分にも量りかえされるであろうから。ルカ6:38(口語訳)

与えると与えられる、というのが天の法則です。人に与えようとすれば、神が与えた人を祝福してくださるのです。ですから「自分を養うのに精いっぱいで、どこかに困っている人がいても献金なんてできません、というのは、まちがいです。

受けるよりは与える人生へ

わたしは、あなたがたもこのように働いて、弱い者を助けなければならないこと、また「受けるよりは与える方が、幸いである」と言われた主イエスの言葉を記憶しているべきことを、万事について教え示したのである。使徒20:35(口語訳)

『受けるよりは与える方が、幸いである』と主は言われました。いや、やはり与えるよりも受ける方が幸いだ、と感じている人の方が多いかもしれません。正直言って、自己中心の罪びとである私たちは、やはりもらう方がうれしい、と思うのではないでしょうか。もらうことがうれしくないわけがありません。自分が得することですからうれしいし、ありがたいことです。

しかし、キリストは、その喜びよりももっと深い満足と喜びを与える生き方がある、ということを教え、身をもって示してくださったのです。

キリストは人間を創造されたお方、人間の本当の必要をご存知の神です。ですから、キリストの言葉には、耳を傾ける価値があるのです。キリストのみ言葉に聞き従うなら、今まで自分が知らなかった、新しい、もっと豊かな人生が開けてくるのです。

与える人生がなぜ幸せなのか、その理由を先に触れておきたいと思います。

与える生き方がしあわせである理由

①与える者はそれ以上に受ける、という約束がある

与えよ。そうすれば、自分にも与えられるであろう。人々はおし入れ、ゆすり入れ、あふれ出るまでに量をよくして、あなたがたのふところに入れてくれるであろう。あなたがたの量るその量りで、自分にも量りかえされるであろうから。ルカ6:38(口語訳) 

これは神の約束の言葉です。この約束が真実であることを、私たちも、日常生活の中で、体験させていただきたいものですね。

②「人が死んでのちに残るのは、集めたものではなくて散らしたものである」

 人が死んでのちに残るのは、集めたものではなくて散らしたものである。

(ジェラール・シャンドリー)(三浦綾子著『明日のあなたへ』224ページ)

このことばも、受けるよりは与える方がさいわいである、という真理の正しさを裏付けることばです。

自分が死んだ時、何が残るでしょうか。自分が人からもらったもの、特にいただいて食べてしまったものなどは、全く残りません。自分のために取っておいたものは、人から受けた親切なども、皆、自分の死と共にすべて消えうせてしまいます。

しかし、人に与えたものは、それが物であれ、親切や優しいことばなどのような精神的なものであれ、与えた相手の人の心に残ります。

鈴木重張先生(セブンスデー・アドベンチストの引退牧師、韓国から来られた宣教師のために、車を10数台提供された)の告別式には、たくさんのPMM宣教師が韓国から来られたそうです。

「人が死んでのちに残るのは、集めたものではなくて散らしたものである。」

どれだけ、多くを施し散らしたかが、その人の人生の豊かさを表しているのではないでしょうか。

自分のために富み蓄えても、決して豊かな人生にはならないのです。

受けるよりは与える方がさいわいである。使徒20:35(口語訳)

これは、イエス・キリストご自身の生き方そのものでした。神でありながら、わたしたちと同じ人間となって、この世に来てくださいました。

イエス・キリストが来られたことによって、「目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、らい病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされ」(マタイ11:5)ました。

人々の必要を満たすために、与えて与えて与えつくされました。イエス様はまた弟子たちを、愛して愛し通されました。最後に、全人類の罪のために、ご自身の命までささげてくださいました。死ぬ時には、裸で死んでいきました。何一つ残しませんでした。

神のみ子、イエス・キリストが、このわたしたち一人一人を愛して、すべてを与えてくださったのです。このキリストによって、わたしたちは、罪を赦され、永遠の命を賜ったのです。

キリストは、全人類のためにすべてを与えられたことによって、今では、数え切れないほどの人々が、自分の人生をキリストに捧げて生きています。キリストの愛は日々、人の心を変え、人生を変えています。キリストは、信じる者の心に生きていて、決して忘れられることはないのです。確かに、キリストほど豊かな人生を生きた方はおられません。

「受けるよりは与える方が幸いである」とキリストは仰せになりました。

実は、与える生き方を、してあげる、というのではなく、させていただく、と考えれば、与える生き方、それ自体が、いただく、受ける生き方なのです。そこには、たくさんの祝福が隠されているのです。させていただくことで、わたしたちは、その祝福をいただけるのです。

十戒の第8条は、「受ける」ことを第一に求める生き方から、神のため、人のために、「与える」ことを求める生き方に転換をするように、と招いているのです。それは、言い換えれば「愛すること」です。

あなたが、神様から与えられているものを、人の必要に応えるために、身近な家族から教会の家族、さらに、あなたの友人、隣人、知人へと、自分を与えることを心がけるように、と、この戒めは勧めているのです。

あなたが、神様から与えられているものを、人の必要に応えるために、身近な家族から教会の家族、さらに、あなたの友人、隣人、知人へと、与えることを心がけることをお勧めします。それは人のために自分を与えることを意味します。

だいそれたことを考えなくてもいいのです。物を与えるにしても、必ずしもわざわざ買わなくても、いただいたものをおすそ分けする、それだけでも、相手に喜ばれます。

笑顔、微笑みを与えよう

しかし、与えるものは、物質にかぎりません。たとえば、ほほえみ、だれに対しても、ほほえみをもって挨拶する、笑顔で声をかける、それだけで、どれだけ相手の心をなごませ、しあわせにするでしょうか。

ほほえむだけで こんなにあたりが明るくなる   ほほえむだけで こんなに喜んでくれる
ほほえむだけで こんなに安心してくれる     ほほえむだけで こんなに和やかな顔になる
ほほえむだけで こんなに慰めてあげられる    ほほえむだけで こんなに親しくなれる
ほほえむだけで こんなにうちとけられる     ほほえみよ すべての時に生きがいを

河野進「ほほえみ」(『母よ、幸せにしてあげる』p115より)

笑顔、いつも変わらぬほほえみ、これは、愛の神を信じ、イエスキリストの救いにあずかって喜んでいるクリスチャンに最もふさわしい姿ではないでしょうか。

「たとい山々が移り、丘が動いても、わたしの変わらぬ愛は、あなたから移らず』(イザヤ54:10新改訳)とあります。神様はいつも変わることなく、このわたしを愛してくださっている、わたしはこの神に愛されている、と信じる者は、いつも喜んでいられます。いつも変わらぬ笑顔でいられるのです。

だれもが笑顔を必要としています。笑顔がない人こそ、一番笑顔を必要としている人です。ですから、いつも、誰に対しても笑顔で挨拶し、声をかけ、笑顔で交わることを求めていくなら、教会が変わります。家庭が変わります。

時間を与えよう

だれかのために時間をさくこと、これもまた、今、最も必要とされる具体的な愛の形です。さびしい人がたくさんいます。自分の気持ちをわかってくれる人を求めています。

だれかと時間を共に過ごすこと、そして、耳を傾けること、このことに心を留めて、毎日を過ごすなら、神様はあなたのこれからの人生を、豊かに祝福してくださるに違いありません。

特に、家族のことを考えてあげてください。距離的には近くにいても、心の通うコミュニケーションがないかもしれません。意味のある交わりを持つ時間を作ってください。さらに、一緒に祈る時間が持てたら、さらにすばらしいと思います。これは、教会の家族の間にも言えることです。心を開いて語り合い、祈り合う時間を増やしていきしょう。

言葉をかけよう

『奇跡のりんご』の本で有名になった、木村秋則さんの体験は、私の生き方に変化をもたらしました。この方は、農薬も有機肥料も一切使わずに、リンゴ作りに成功した方です。

彼は、しばしば、まるで普通の人と話すように、ゆっくりと畑を回って一本一本の木と話している方でした。木村さんは、リンゴの木に感謝して声をかけていたのでした。自然でさえ、人間の声かけにこたえてくれるんだ、ということを学ばせていただきました。ましてや、人間は、人間の声かけによって、どれだけ励まされ、慰められることでしょう。

愛の神、イエス・キリストは、私たち一人一人を罪から救うために、この世にくだり、すべてを与えて与え尽し、最後に、私たちの罪を一身に背負って、あの十字架にかかって私たちが受けるべき罪の罰を、引き受けて下さいました。

このお方を自分の救い主、また主として心にお迎えし、この主に祈りながら、私たちも、主イエス・キリストと共に、隣人の祝福となる人生、与えて生きる人生を歩ませていただきたいものです。

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