あなたを解放する10の愛の言葉

目次

第九条からのメッセージ

偽証してはならない

今回は、十戒の第9条を共に学びましょう。

第9戒
あなたは隣人について偽証してはならない。

出エジプト記20:16

ある女性が、法律家のもとに来て、相談しました。相談者である女性には、婚約者がいました。ところが会社に、無責任な噂を流す人がいて、「あの人は今まで五人もの男の人をだましてつき合ってきて、今度結婚する人は六人目なのよ」などと言ってまわりました。それは全く事実無根だったのですが、その人の話がとても巧みだったので、みんな信じてしまい、ついに婚約者の耳にまで届き、婚約を解消されてしまったそうです。

このように、単なるうわさ話が信じられて被害を被った場合、訴えることができるかという相談でした。

法律家の先生によると、そのような場合、二十万円ほどの賠償金を要求することができるそうです。嘘の噂話をするということは、時には法律的にも罰を受ける、非常に恐ろしい事なんですね。しかし、それ以上に、真っ赤な嘘で、一人の人生をだいなしにするその破壊的な影響力は恐ろしいものですね。

あなたは隣人について偽証してはならない、これが十戒の第9条です。これも私たちのお互いの人生が幸福であることを切に願う神が与えて下さった命の道なのです。

 「偽証してはならない」というのは、まず裁判で証言する時に嘘をついてはならないということ、そして証言する時だけでなく、どんな時にも嘘をついてはならないということです。

真実を語るということ

さらに、この戒めは、積極的な言い方をすれば、「真実の言葉を語りなさい」ということです。

「真実の言葉を語る」とは、何でも本当の事を言えばいいという事ではありません。たとえば、先ほどの例では事実無根の噂でしたが実際に過去に5人の恋人がいた女性がいるとします。そして相手をだましていたこともあるし、悪い行いがあったとします。しかしある時悔い改めて、今新しく生き直しているとしたらどうでしょうか。この場合、事実だからといって悔い改める前の過去をあばくようなことを他人が言うのは、真実を語ることにはなりません。これはとても大切な事です。

まことの証人は人の命を救う、偽りを吐く者は裏切り者である。箴言14:25  

新共同訳では、「真実の証人は魂を救い、欺きの発言をする者は裏切る」となっています。

「真実の証人」というのは、ただ事実をずけずけと言う人のことではなく、魂を救う人のことだ、と御言葉には示されているのです。人を生かし、人を救う言葉を語ること、それが、この第9条の中で神が望んでおられることなのです。

事実をなんでもかんでも言ってしまうというのは、ある時には人を傷つける残酷なことです。時には語らないことの方が真実な態度である場合があります。真実を語るとは、人のいのちを救い、人の心を救い、人の名誉を守る言葉を語ることも含まれるのです。最初の例で取り上げた、嘘の噂話をした人は、婚約した女性の名誉を傷つけ、この女性から、人々からの信頼という宝を奪い、とりわけ婚約していた男性からの信頼をぶちこわしてしまいました。恐ろしい罪を犯したのです。

ですから「偽証してはならない」と言う戒めの中には、嘘をついてはいけないということだけでなく、人の名誉を傷つけたり、信用を失わせるようなことを言ってはいけないという意味が含まれているのです。反対に、人の名誉が守られるように努力しなさいと言われているのです。(古川第一郎著 『十戒にこめられた神の愛』、161)

十戒の第9条は、言葉に関して戒めています。私たち人間だけが、言葉を語る存在です。

聖書の創世記1章27節には、「神は自分のかたちに人を創造された。すなわち、神のかたちに創造し、男と女に創造された。」とありますが、人間だけが、神に似た品性と能力を与えられて、造られたと、聖書は教えています。その特徴の一つが、言葉を用いて、コミュニケーションを行う存在であるということです。

神のかたちにかたどって造られた人間だけが、地上に生存する生き物の中で、言葉を用いて、神と交わり、またお互いに交わることができる唯一の存在です。言葉を使ってコミュニケーション ができる、ということは、人間に与えられたすばらしい賜物であります。一方で、最初の例でもわかるように、言葉は用い方によっては、人の語る言葉が人に与える負の影響もとても大きいものがあります。

言葉というすばらしい賜物が持つ影響力がどんなに大きいか、ということについて、聖書はこう述べています。

死と生とは舌に支配される、これを愛する者はその実を食べる。箴言18:21箴言18:21

つまり、人を生かすも殺すも言葉しだいである、ということです。

言葉で人を殺した実例

ある母親が、酒乱の夫に来る日も来る日も苦しめられ、「あんなお父ちゃんはいないほうがいい。死んだほうがいい」と、いつも子供たちに言っていました。三人の子供たちはこの言葉を心に留め、ある日父親が泥酔して寝入った時、殺してしまったという。(三浦綾子著、『泉への招待』42)

極端な例かもしれませんが、しかし、現実に起ったことです。この母親はまさか、自分の子供たちが、父親を殺すなどとは夢にも考えていなかったでしょう。しかし、彼女が常日頃、子供に言い続けた言葉が、子供たちの心の中で育っていって、自分の父親を殺す、という実を結んだのです。その種をまいたのは母親であり、種は、言葉そのものだったのです。

この出来事は、人が語る言葉がどれだけの力、影響力をもっているか、ということをわたしたちに気づかせてくれるのに十分なものであります。言葉は生きものなのです。心に蒔かれた言葉は種であって、それが心の中で芽を出し、成長していきます。そして、悪い言葉の種は、悪い実を結び、よい言葉の種は、よい実を結ばせるのです。こうして、言葉は、語る者自身にも、それを聞く者にも、大きな影響をもたらすのです。

言葉で人を生かした実例

三浦綾子さんは、有名なクリスチャン小説家です。彼女を生かした言葉があります。それは、夫である光世さんが、まだ結婚する前から語っていた言葉でした。それは、「あなたは大きな仕事をする人です」という言葉でした。

三浦光世さんが、この言葉を初めて語った時、堀田(三浦さんの旧姓)綾子さんは、脊椎カリエスのために、ギプスベッドに臥ていました。寝返りも打てません。だからいつも顔を天井に向けていました。洗面にもトイレにも立つことができません。用事があると、彼女は、枕もとの呼び鈴を押して家の人を呼んでいました。

綾子さんは、その時の思いを次のように書いています。

「自分は何の役にも立たない人間だ」と思っていた。自分が生きていることは、人に迷惑をかけていることにほかならないと思っていた。わたしは金がかかり、手間暇のかかるだけの存在だった。

信仰は持っていたが、家人のためにも自分は死んだ方がいいのではないかと、幾度私は思ったか知れない。一ヶ月や二ヶ月のねたっきりの生活ではないのだ。何年もつづいているのだ。しかも一進一退で、いつになったら治るという保証もない。肺結核もよくなってはおらず、時折血も喀いた。私は私自身の存在に意義を感ずることがなかなかできなかった。「神は不用なものをこの世に造り給わない」という思いはあった。だが、この自分が、この世に必要な存在であるとは、どうしても思えなかった。

そんな私に、三浦がある時こう言った、「あなたは大きな仕事をする人ですから」

わたしは耳を疑った。(大きな仕事?)いったいどんな大きな仕事をするというのだろう。いぶかしく思うわたしに、三浦は静かな笑顔を見せていた。その後も、三浦は、「あなたは大きな仕事をする人ですから」という言葉を、幾度も幾度も使った。初めは驚いただけだったが、そのうちに、わたしの心の中に、(もしかしたら……)という思いが芽生えた。……私は何の才能もない人間だが、神はそんな私でも使ってくださろうとしているのだろうか。もし使ってくださるものなら、どんなことでもしたい。わたしは次第にそう思うようになった。それまでは、病気の私にできることは、死んだ体を解剖に献ずることぐらいしかないと思っていた。それが三浦の言葉によって、何かが心の中に芽生えてきたのである。……わたしは生きているのが楽しくなった。人間にとって、自分は役に立たないと思うことほど、辛いことはない。……

三浦綾子著、『私の赤い手帖から:忘れえぬ言葉』122-125

掘田綾子さんは、光世さんに会って5年目に結婚され、三浦綾子となりました。三浦光世さんは、「結婚してからも、『おまえはいつか大きな仕事をする人間だ』といってくれた。……、三浦の続けてくれた言葉は大きかった。むろんわたしに大きな事ができるかどうかは別としても……」(三浦綾子著、『私の赤い手帖から:忘れえぬ言葉』122-125)

処女作「氷点」から始まって、すばらしい作品を次々と世に出して、多くの人に感化を与えてきた。彼女の作品を読んだことがきっかけで、聖書を読むようになり、信仰を持った人がどれだけいるかわからない。また、すでに信仰を持っている人たちにも、絶大な影響を与えています。

確かに、彼女は、神様に用いられて、大きな仕事をされました。三浦光世さんの言葉は、現実となったのです。彼の言葉が、綾子さんに生きる希望、勇気を与えたのです。人が語る言葉は、このように、人を生かすこともできるのです。三浦光世さんが、語り続けた言葉が、三浦綾子さんの心の中で育って成長し、すばらしい実を結んだのです。

私たち人間だけが、言葉を語る存在です。このようにすばらしい言葉を、私たちは、日ごろどのように使っているでしょうか。

あなたが語る言葉は、人を生かしているでしょうか。それとも人を殺しているでしょうか。これは、聞き流してはならない、大切なことです。「死と生とは舌に支配される、これを愛する者はその実を食べる」(箴言18:21)。このみ言葉を、かみしめてみてください。

舌を制しうるもの

人間は、言葉で失敗することがどんなに多いか、という事に関して、聖書は、次のように指摘しています。

3:2わたしたちは皆、多くのあやまちを犯すものである。もし、言葉の上であやまちのない人があれば、そういう人は、全身をも制御することのできる完全な人である。 ……3:5それと同じく、舌は小さな器官ではあるが、よく大言壮語する。見よ、ごく小さな火でも、非常に大きな森を燃やすではないか。 3:6舌は火である。不義の世界である。舌は、わたしたちの器官の一つとしてそなえられたものであるが、全身を汚し、生存の車輪を燃やし、自らは地獄の火で焼かれる。 ……3:8ところが、舌を制しうる人は、ひとりもいない。それは、制しにくい悪であって、死の毒に満ちている。ヤコブの手紙3章2ー8節

神の御言葉は、舌を制しうる人は、ひとりもいない、と断言しています。もし、言葉の上であやまちのない人があれば、そういう人は全身を制御することのできる完全な人である、というのです。

誰かの言葉で悲しい思いをしたり、傷ついたり、失望したり、腹が立ったりしたことがありますか。

これは、かなりはっきりと思い出せることがあるのではないでしょうか。私にもあります。

中学時代のクラブ活動 体操部の顧問の先生から言われた言葉は、今でも覚えています。

県大会に出場した時の事です。私は補欠でした。選手は演技をすることで筋肉痛になるので、サロメチールを塗っていました。私は補欠でしたが、いっしょに塗っていると、顧問の先生が、「おまえまで塗るのか」と言われました、60年近くもたっているのに今でも覚えています、結果的には正選手がけがをしたか、体調を崩して私も試合に出たのですが、顧問の先生に言われた言葉は悲しかったですね。言葉のもつ影響力は、はかりしれませんね。私たちは自分が人の言葉で傷ついたことはよく覚えています。

しかし、逆に、自分が語った言葉でだれかを傷つけたり、悲しませたりすることも同じようにあるはずです。しかし、案外、これについては、自覚が乏しいのではないでしょうか。私たちは、故意に人を傷つけたりすることもあるだろうし、気付かずに、人を傷つけることがあるのです。人の事を悪く言うなどは、日常的に犯しやすいのではないでしょうか。この点からも、私たちは神の前に決して自分は罪がない、と誇れない者ですね。

確かに、私たちは言葉の上であやまちを犯しやすい者ですね。私たちはだれしも知らずに人を傷つけたり、悲しませたりする者である、ということをしっかりと心に留めておきたいものですね。

私たちに与えられた言葉、という尊い賜物の用い方について、先ほどのヤコブの手紙の最後の部分に次のように記されています。

3:9わたしたちは、この舌で父なる主をさんびし、また、その同じ舌で、神にかたどって造られた人間をのろっている。3:10同じ口から、さんびとのろいとが出て来る。わたしの兄弟たちよ。このような事は、あるべきでない。ヤコブ3:9,10

神を賛美している同じ舌で、神にかたどって造られた人間を呪うというような事は、あるべきではない、、というのです。神を賛美し、神に感謝をささげる、と共に、同じ神に造られ、生かされ、愛されている人間を愛し、慰め、励まし、希望を与え、生かす言葉を語ることを、神は求めておられます。

なぜなら、私たちは、共にキリストによって罪から救われ、神の子とされ、お互いはキリストの体の一部とされているからです。人を傷つけることは自分をも傷つけ、体全体に痛みをもたらすことになるからです。

私たちはキリストの流された十字架の血のおかげで、罪を赦され、神の子とされ、キリストの体の一部とされました。まだ信じていない人も、同じキリストに愛されている大切な魂です。そして、神は、その人をも救いに導こうとしておられる、大切な魂なのです。だから、どの人をも呪ったり、傷つけたりしないように、むしろ、その人をいやし、慰め、励まし、希望を与える言葉を語りなさい、感謝を表わし、生きていることを喜ぶことができる言葉を語りなさい、と聖書は教えているのです。

ですから、人を生かすことば、人を癒し慰める優しい言葉を語る心と言葉を祈り求めましょう。

言葉の力

さて、言葉の力ということを考える時、もう一つ、忘れてはならない、大切なことがあります。

ことばは心のうちにあるものを示す。「おおよそ、心からあふれる事を、口が語るものである」(マタイ12:34)。しかしことばは、品性をあらわすだけではない。ことばは品性に作用する力を持っている。人は自分自身のことばに影響される。

各時代の希望、中巻、40ページ、『希望への光』834ページ

口に出すときに思想や感情が助長され、強められるのは自然の法則である。言葉は思想を表現するが、同時に思想は言葉によって動かされることも事実である。

『ミニストリー・オブ・ヒーリング』p229

あなたは、だれかのことを、「あの人はだいきらい」とか「あの人のことは絶対赦せない」と大きな声で口にしたことはないでしょうか。きらい、と言えば言うほどもっときらいになり、赦せない、と声に出して言うことによって、赦せない心が強められていく、ということを経験したことはないでしょうか。

このように、ことばは、私たちの品性に良くも悪くも深い影響を及ぼします。

三浦光世さんは、奥さんの綾子さんのことを、一日にニ、三十回も、めんこい、めんこい、と言っていたそうです。その光世さんが、こう言っています。

「わたしも毎日メンコイメンコイと綾子に言うが、言えば言うほどかわいくなるからね。」すると、綾子さんが、「ありがとう。わたしも、心から光世さんを尊敬しているけれど、『まあ、すばらしい事を言うわねえ、あなたって』と言うたびに、その思いを新たにするわ。だから、私、女も、素直に、一言ずつでも、夫をほめる言葉を毎日言うといいと思うの。次々に尊敬するところが目に付いてきて、本当にそう思ってしまいますよ

愛に遠くあれど』107

わたしは、教会はあったかい、いい教会です、だれでも笑顔で迎えてくれる教会です、と繰り返し言っています。そのように話すことでますますそのことを実感しています。

言葉の力、ということを考えてみた時、このように言葉が、私たちの心、思想、感情、さらには品性に与える影響ということを、しっかりと心に留めていただきたいと思います。

わたしは、これから結婚する方々のために開いてきたセミナーで、いつもお話していることがあります。それは、『表現しなければ、愛は永く続かない』ということです。あなたは、伴侶に対して、子供や親に対して、愛と感謝をどのように表現しているでしょうか。

かつてある女性と出会いました。彼女が90歳くらいの時に出会ったのですが、すばらしいご主人と幸せな結婚生活を送られて、ご主人に先立たれ、一人で暮らしておられました。彼女は、御主人との結婚生活において、「ありがとう」「ごめんなさい」と「はい」ということばを大切にしてこられた、と言っておられました。これは人間関係をよくするキーワードですね。

「ありがとう」という感謝の言葉、「ごめんなさい」という謝罪の言葉、さらに、「はい」という素直な応答の言葉、これらの言葉を、神様に対しても、もっともっと表現するならば、私たちの人生は、どんなに祝福されたものとなるか、わかりません。

十戒の第9条は、人に対してだけでなく、神に対してもそのまま適用できる、命の戒めです。神から賜った言葉を、正しく用いて、自分も人も、幸せになり、さらに、神にも喜ばれ、祝福された人生を歩ませていただきたいものです。

1 2 3 4 5 6 7 8 9 10
よかったらシェアしてね!
目次