あなたを解放する10の愛の言葉

目次

第六条からのメッセージ

殺してはならない

今回は、十戒の第6条をご一緒に学びましょう。

あなたは殺してはならない。出エジプト記20:13(口語訳)

殺してはならない、という戒めは、積極的な言い方に変えれば、生かしなさい、ということです。

神から与えられた尊い命を、自分の命であれ、人の命であれ、限りなく大切にし、一人一人の人間の尊厳、存在を、最大限に守りなさい、ということです。これは、確かに、自分を愛するように、隣人を愛する、という生き方の現われなのです。

エレン・G・ホワイトは、この戒めに関して次のように述べています

あなたは殺してはならない」(出エジプト20:13)。命を縮めるすべての不正行為、憎しみとふくしゅうの精神、また、他を傷つける行為を行なわせたり、他が傷つくことを望んだりさせる悪感情を心にいだくこと、(なぜなら、すべて兄弟を憎む者は人殺しだからである)、利己的精神をいだいて、貧者や苦しむ者を顧みないこと、健康を害するすべての放縦、また、不必要な消耗、過労に陥ることは、程度の差こそあっても、すべて第6条の違反である。

『人類のあけぼの』上、359頁、『希望への光』156頁

これによれば、十戒の第6条は、殺人を戒めている以上の深さと広がりがあることがわかりますね。神から賜った自分の命、また人の命を縮めるような言行動作、精神肉体の健康を損なう不摂生、放縦な生活も含まれるということがわかりますね。

イエス・キリストご自身は、次のように語っておられます。

昔の人々に「殺すな。殺す者は裁判を受けねばならない」と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。しかし、わたしはあなたがたに言う。兄弟に対して怒る者は、だれでも裁判を受けねばならない。兄弟にむかって愚か者という者は、議会に引き渡されるであろう。また、ばか者という者は、地獄の火に投げ込まれるであろう。マタイ5:21,22(口語訳)

イエス様は、兄弟に対して怒る者、愚か者という者、ばか者という者は殺人を犯しているのと同じことになる、と言われました。なぜでしょうか。

なぜなら、怒るということは、思いにおいて相手を殺すことであり、「愚か者」「ばか者」などということは言葉で人を殺すことだからです。

つまり、殺人には思いにおいて人を殺す場合と、言葉で人を殺す場合と、実際に行いで殺す場合の三つがあるわけです。

この殺人行為は、結局、相手の人の価値を、その人の持っている本当の価値よりも低く見積もることなのです。

ディスカウントショップといわれる店をご存じだと思います。そこでは、物の本当の値段よりもずっと低い値段でそれを売っています。

人を殺す行為は、相手の人の価値をディスカウント、つまり値引きすることです。

その人が生きてそこにいるということの価値を値引きして、「あなたはいなくてもいい」と言ってしまうことです。

あるいはもう一歩進んで、「いない方がいい」と言ったり思ったりすることです。そのようにすることは、その人を殺していることになるのです。

この思いが高じると、実際の殺人になるからです。

どのような時に怒るのか

人はどのような時に怒るでしょうか。

何か言われたり、されたりしたその態度が気に入らない時、「何だその扱いは!」と怒りたくなるはずです。

それは、自分に対する扱いが正しくない、自分が過小評価されているという怒りです。

そして、値引きされたことによって怒った人が何をするかというと、そんなことをした相手を自分も値引きしてやろうとするのです。いわば復讐です。

イエス様は再臨が近づいている前兆として、「不法がはびこるので、多くの人の愛が冷えるであろう」(マタイ24:12)と言われましたが、今日、悲しい事件が頻繁に起こっています。

親が幼い子どもを虐待して殺したり、子どもが親を殺したり、さらには通り魔殺人のように、無差別殺人も起こります。

いじめによる殺人もあります。命は地球よりも重いといわれながら、現実には、今日も命が非常に軽んじられているのではないでしょうか。

まさに、愛が冷えていることの、目に見える現象といえます。

厚生労働省の報告によれば、2022年の児童相談所による児童虐待相談対応件数は、207,659件で、前年度より2,615件(0.3%)増え、過去最多を更新しました。

尊く幼い子どもたちが虐待を受けて傷つけられていることで、児童相談所に助けを求めてくる件数が過去最高であるということは、悲しい現実です。

さらに、その虐待の結果、殺される子どもたちがいるわけですから、とても悲惨な悲しい事です。

これも「多くの人の愛が冷えるであろう」(マタイ24:11)と言われたキリストの言葉どおりであり、キリストのご再臨が近づいている前兆の一つといえるでしょう。

あなたがたが知っているとおり、すべて兄弟を憎む者は人殺しであり、人殺しはすべて、そのうちに永遠のいのちをとどめてはいない。ヨハネ第一、3:15(口語訳)

だれかを憎むと、その人の顔を見るのも嫌になり、思い出すのも嫌になるのではないでしょうか。

憎しみが心に宿ると、その人を、自分の心の世界から消してしまうのです。

それは、思いにおける殺人であり、それは、実際の殺人行為にもつながるものです。だから、神様は、兄弟を憎む者は人殺しであると言われているのです。

聖書が教えている驚くべき事実は、最初の人であるアダムとエバの間に生まれた最初の息子カインが、弟のアベルを殺したということです。

アダムとエバは神によって造られました。しかし、カインとアベルは、アダムとエバの性の営みによって、この世に生み出された最初の人間たちです。

その最初の息子カインが、弟アベルを殺したのです。なぜ、カインはアベルを殺したのでしょうか。

アベルは羊を飼う者となり、カインは土を耕す者となった。日がたって、カインは地の産物を持ってきて、主に供え物とした。アベルもまた、その群れのういごと肥えたものとを持ってきた。主はアベルとその供え物とを顧みられた。しかしカインとその供え物とは顧みられなかったので、カインは大いに憤って、顔を伏せた。創世記4:2―5(口語訳)

アベルが受け入れられ、自分が受け入れられなかったことに憤って、カインはアベルを殺した、と聖書にしるされています。

怒りが、殺人行為になりました。カインの心には、アベルに対するねたみと、神への不満も感じられます。自分よりも、アベルが受け入れられたことが、彼には面白くなかったのです。

ある仲のよい二人の男がいました。二人は同じ大学を出、同じ会社に入りました。何年かたって、その一人が係長に取り立てられました。

その頃から二人の間に、溝ができたそうです。人が仲たがいするのは、往々にしてどちらかがより高く評価された時ということが、わたしたちの現実においてもしばしばおこりうるのではないでしょうか。

共に喜ぶ難しさ

喜ぶものと共に喜び、泣く者と共になきなさい。ローマ12:15(口語訳)

「泣く者と共に泣く」ということは割り合いできるものです。なぜなら、向こうの方がかわいそうなのですから、自分がいくらか上に立って泣くことができるのです。ところが「喜ぶ者と共に喜ぶ」ということは、とても難しいものです。

たとえば、入学試験か何かを受けて、向こうが落ちて自分が受かった場合には「ああ、私だけが受かって申し訳ない」と思えるかもしれません。さらになんとか慰め、励まそうとするかもしれません。

しかし、反対に、自分が落ちて相手が受かった時はどうでしょう。「良かったねえ。本当によかった」と心から喜ぶことはとても難しいのではないでしょうか。

大人の世界でも、子どもの世界でも、いじめがあります。これも殺人行為です。その動機をさぐるなら、そこに、劣等感があったり、ひがみ根性があったり、ねたみや憎しみがあったりするのです。

わたしたちの心には、自分でも「いやだな」と思いながらも、どうしてもこのねたみという心が出てきてしまうものです。

これが、生まれながらの人間の性質です。義人はいない、と聖書がいうように、生まれながらの人間で、このねたみ心から解放されている人は一人もいないのです。

カインの殺人事件といい、また、ねたみからイエス様を十字架につけた祭司長、律法学者、パリサイ人といい、聖書の出来事は、過去のことではありません。

わたしたち人間の現実が記されているのです。「殺してはならない」という戒めは、わたしたち自身の日常生活と深くかかわりのある戒めなのです。わたしたちが先祖伝来、受け継いでいる罪の性質と深い関係があるのです。

神の戒めは、わたしたちの心を照らす鏡です。正直に、この戒めに照らして、自分の心と生活をさぐるなら、自分が救いを必要とする罪人であることが、よくわかるのではないでしょうか。

あなたが、怒り、ねたみ、憎しみ、あるいは、恨みをいだいたことがある、いや、今でもそのような思いに支配されることがあるのです。

つまり、殺人の罪を犯してきたのです。しかも自分の力で。

このような醜い思いを取り除くことができないということを心から認めることが、本当の救いにあずかる第一歩であります。

自分の現実に気づいたなら、正直に、神に、その罪を告白してください。

もし、わたしたちが、自分の罪を告白するならば、神は真実で正しいかたであるから、その罪をゆるし、すべての不義からわたしたちをきよめて下さる。ヨハネ第一、1:9(口語訳)

さらに、ダビデのように、「神よ、わたしのために清い心をつくり、わたしのうちに新しい、正しい霊を与えてください」(詩篇51:10)と祈ってください。

聖霊の神様は、罪を気づかせてくださるだけでなく、わたしたちの心に、新しい心を造ってくださることのできる創造主であります。

罪を告白するものは、赦されるだけでなく、新しい心を与えられ、その罪からきよめられるのです。

イエス様が、あの十字架にかかって、わたしたちの罪を一身にかぶって、身代わりとなってくださいました。血を流してくださいました。血は命だから、あがなうことができるのです(レビ記17:11参照)。

存在価値を知る

しかし、創造の神を知り、自分がかけがえのない存在として造られ、生かされ、愛されていることを本当に知って、心から信じる時、わたしたちは、自分の存在価値をはっきりと知ることができます。

自分を受け入れられるようになると、自分を大切に思えます。また、人がなんと言おうと、神の目に自分は高価で尊い、ということを確信できる時、平安でいられるのです。

人の評価にふりまわされることがなくなります。それだけでなく、人の存在価値をも、神様の目で見ることを学ぶようになるのです。

神様を知って、「すばらしいな」と思うことの一つは、自分は大きな神様の家族の一員であるという意識がもてるようになったことです。

教会は「キリストの体」(コリント第一12:27)と聖書に教えられています。

わたしたちはそれぞれ、その体の中の一肢体であるということです。

手であり、足であり、目であり、耳である、ということです。そのことがわかってくると、人と競争して、優劣を競う生き方から解放されるのです。

教会の中で自分のできることをさせていただく、それで満足できるのです。神様の家族の中で、自分がお役に立てれば、それを喜ぶことができるのです。

私たちは、一つの家族なのです。ほかの方の活躍が喜びとなるのです。これは、イエス様を信じて、信仰の共同体の中に加えていただいた者に与えられる、大きな祝福であります。

イエス様を信じると、「喜ぶものと共に喜び、泣く者と共に泣く」(ローマ12:15)ことができるようになるのです。神様ができるようにしてくださるのです。

あなたが救い主イエス様を信じて罪から救われるなら、あなたはもはやうらんだり、ねたんだり、憎んだりする必要はない。

あなたは自分の命の価値、存在の価値をしっかりと受け止め、与えられた命を精一杯生きることができるのだ。生きなければならない。

また、ほかの人の存在もまた、神の目に高価で尊いのだから、大切にしなさい。その人が、できるだけいきいきと生きられるように、励まし、助け、支えてあげなさい。

感謝をあらわし、困っている時には、助けを求めなさい。そうすることで、相手に必要とされた、役に立てたという喜びと満足感を与えることができる。相手を生かすことができるのだ。

そのように第6条は教えているのです。

身体を大切にする

十戒の第6条は、この与えられた身体を大切にし、できるだけ、健康で生きられるように心がけることも含まれます。

喫煙は、緩慢な自殺行為。人の近くでタバコを吸うことは、その副流煙で人を殺す、緩慢な殺人行為です。

セブンスデー・アドベンチスト教会には、ニュースタート健康法が与えられています。こうした健康法を実践して、与えられた命を大切にし、出来るだけ健康で、人のためにも祝福となる人生を送らせていただきたいものですね。

命は神様から賜ったかけがえないものです。これは、決して自分で獲得できません。与えられたものです。たった一つのものです。

この命を大切にすること、自分という存在の価値を正しく評価すること、そして、自分を大切にすること、それが自分を愛することです。

イエス様は、自分を愛するようにあなたの隣人を愛しなさい、と教えておられます。自分を受け入れられてこそ、人をも受け入れることができます。

自分が神様の目に大切であるように、ほかの人もみな、神様の宝です。

だから、お互いができるだけ、生きる喜びと感謝にあふれて生きることができるように、心がけていきましょう。

わたしたちのために、ご自分の命まで投げ出してあの十字架で死んでくださったイエス様、死からよみがえって、今も生きて、天でとりなしていてくださるイエス様から目をそらさないで、その愛を日々、しっかりと受け止めながら、祝福された人生を歩まれますように、心よりお祈りします。

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