恵みの衣ー聖書に見る「衣」の比喩的表現

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天の織機で

「キリストは罪人の身代わり、また保証である。彼は罪人の代わりに律法を遵守された。それは、罪人がキリストを信じ、あらゆる点においてキリスト・イエスの満ちあふれる豊かさになるまで成長し、キリストにあって完全な者となるためである。彼は罪のための和解を成し遂げ、罪のあらゆる恥辱と責め、刑罰を負われた。しかし、罪を負われる一方で、彼は永遠の義をもたらしてくださった。信じる者が神の前に汚れのない者とされるためである。『だれかが、神に選ばれた者に対する訴えに対して何を用意されますか?』と言われる時が来る。その答えは、『死んだ方、否、むしろ、復活させられた方であるキリスト・イエス』である。天の織機で織られ、罪深い人間の手による糸が一本も混ざっていない、汚れのない義の衣を持つお方が神の右にいて、信じる子らに御自分の義の完全な衣を着せてくださる。神の御国に救われた者たちは自らのうちに誇りとするものは何一つないであろう」(エレン・G・ホワイト『ユース・インストラクター』12 月6 日、1894 年、英文)。

比喩的表現に注目してください──「天の織機で織られ」、罪深い人間の糸がどこにも縫い込まれていない義の衣、汚れのない義の衣。何と素晴らしいイエスの義、最後に神の御国に救われるすべての人を覆う義についての比喩でしょう。

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鏡を見つめて

3 台のパトカーが女性の運転している車を囲み、道路の端に寄せました。拳銃を構えた警察官が車に近づいてきます。車から降りた女性は驚いて、両手をあげます。女性は恐怖で震えながら、「いったい私が何をしたというの?」と尋ねます。警察官は女性に免許証の提示を求め、数分後、全員安心した様子で、拳銃をしまいました。

「説明してください。どうしたというの? なぜこんなことをするの?」と女性は尋ねます。「じつは」、と一人の警官が言いました。「あなたが気が狂ったように運転し、他車の運転者たちに卑猥な身振りをしているのを見たものですから……」。「それだけのことで、私を止めて拳銃を突き付けるの?」。「いいえ」、とその警官は言いました。「あなたの車にクリスチャンの標語を書いたステッカーが貼られていたので、すっかり盗難車だと思ったのです」

この笑い話は悲しい事実を示しています。つまり、すべてのクリスチャンがその信仰に求められている高い標準に従った生き方をしているとは限らないということです。程度の差こそあれ、私たちはみな欠点を持っています。クリスチャンのだれが、鏡の中に、イエスの品性を完全に反映している自分の顔を見れますか。どれほど信心深くても、鏡の中に、少しでも自分自身の義を見ることのできるクリスチャンがいるでしょうか。

問1 
イザヤ書64 章を読んでください。ここに、どんなことが教えられていますか。衣服についてのどんな比喩的表現が人間の義を描写するために用いられていますか。それは何を意味していますか。この章にはまた、どんな希望が述べられていますか。

「汚れた着物」(6 節/口語訳、5 節/新共同訳)という言葉は、月経によって汚れた着物を意味しています。これは比喩によって堕落以後の人間の義を描写しています。使徒パウロはローマ3 章でこのテーマを取り上げ、ユダヤ人も異邦人も神の前で同じく神の恵みを必要とする罪人の立場にあると言っています。

みなされた義

キリストを通して啓示された神の義と比較して、自分自身の義といえるものが自分のうちにあるでしょうか。実際のところ、何もありません。あるのはただ、「汚れた着物」だけです。

それでは、私たちにはどんな希望があるのでしょうか。事実、大いなる希望があります。神学用語を借りるなら、この希望は「みなされた義(着せられた義)」です。それは何を意味するのでしょうか。非常に単純です。それはイエスの完全な義、「天の織機によって織られ」、信仰によって私たちに与えられる義です。「みなされた義」とは、イエスの罪なき生き方が私たちの罪深い生き方に取って代わるという意味です。キリストの義は私たちに着せられ、私たちの外部を完全に覆います。私たちは神の御前に、あたかも全く罪を犯したことがないかのように、つねに神の命令に完全に従順であったかのように、イエス御自身のように清く、正しい者であるかのように見なされます。

問2 
ローマ4:1 〜7 を読んでください。アブラハムが神を信頼したことはどんな意味で転嫁された義を例示するものですか。

ローマ4:2 には、もしアブラハムが行いによって義とされたのであれば、彼は誇っもよいと書かれています。しかしながら、彼は神を信じ、それによって義と認められたのでした。イエスは罪人である私たちに対して素直な信仰を持ってみもとに来るように招いておられます。イエスは御自分の完全な衣、すなわち人としての地上の生涯において完成された完全な義を与えてくださいます。これが、いわゆる「転嫁された義」であって、イザヤ書64 章とローマ3 章に如実に描かれている窮境に対する唯一の解決法です。

イエスはあなたの古い、しみだらけの衣、汚れた着物を脱がせ、御自分の完全な義、完全な聖、完全な律法遵守の記録の衣で覆ってくださいます。イエスは御自分の衣であなたを覆い、耳もとで次のようにささやかれます──「もう、あなたは完全だ。わたしの完全をあなたに与えよう。この衣を身に着け、脱げないようにしなさい」

律法とは別に

ある説教者が会衆の前に立ち、次のように話しました。

「イエス・キリストは私の人生を変えてくださいました。今の私は全く新しい、これまでの自分とは違った人です。クリスチャンとして過ごしてきた25 年間の間に、神の御言葉によって裁かれ試された自分の経験から教えられた重要な真理があるとすれば、それはこうです。もし私が最後まで耐え忍び、神の永遠の御国に入ることができるとすれば、それは疑いもなく、キリストの義の衣、天の織機によって織られ、私を完全に覆う義によって覆われるからにほかなりません。私は罪に勝利することができます。私は神の恵みによって何度も勝利してきました。私は品性の欠点を克服することができます。神の恵みによってそうしてきました。私は自分の敵を含めて、さまざまな人を愛することを神の恵みによって学んでいます。

結局のところ、そうしたことも決して十分とは言えません。もし私がイエスの義、すなわち律法への従順によらず、信仰によって私に与えられる義によって覆われることがなければ、千年の終わりに、皆さんは聖なる都の城壁の上に立って、私に別れの手を振ることができます。なぜなら、皆さんと共に私がそこにいないことを知っています。私は決してそこにいることができないからです」

問3 
ローマ3:21 〜31 を読んでください。パウロはここで何と言っていますか。これらの聖句に表された思想は上記の説教者の言葉にどのように反映されていますか。

私たちを救う義、罪人である私たちを衣のように覆う義は、「律法とは関係なく」示された義です。言い換えるなら、それはイエスの義、イエスの命の義、「キリスト・イエスによる贖」をもたらす義です。この贖いは私たち自身や私たちの律法遵守によるのではなく、イエスによるのであり、イエスのうちに見られるものです。この贖いは信仰によって私たちのものとなります。

服装は人をつくる

ある作家が強盗をもくろんだ二人の悪党について短い物語を書いています。計画によれば、悪党の一人が警官の服装をして、店の前に立つことになっていました。警官が立っていれば、相棒が強盗に押し入っても他の人々に怪しまれないですみます。ところが実際は、押し入った相棒は警官の服を着たもう一人の相棒につかまり、逮捕されてしまったのです! 警官の服を着た相棒はすっかり警官のつもりになってしまったのでした。

私たちは信仰によってキリストの「義の衣」で覆われています。今や、私たちは新たに生まれ、キリストにあって新しい命にあずかっています。したがって、私たちの生き方が着ている衣を反映するとしても不思議ではありません。

キリストの義の衣を受けることによって、私たちは全的にキリストに献身し、キリストが御自分の品性の属性を私たちの生活に注ぎ込んでくださいます。私たちは全的に恵みによって義とされ、同時に服従する力を与えられます。後者は時間をかけて身につき、一生の働きとして完成されるものです。それ以上のものを求める必要がありますか。「わたしを強めてくださる方のお陰で、わたしにはすべてが可能です」(フィリ4:13)。これが律法に従う力です。

問4 
ローマ6:1 〜13 を読んでください。イエスの義で覆われ、それを「まとっている」今、私たちはどのような生き方をすべきであると、これらの聖句は教えていますか。

パウロはここで、イエスと共に「十字架につけられた」人に起こる劇的な、生き方を変える効果について明言しています。私たちの古い人、つまり汚れた着物をまとった人は死にました。そして、新しい人が生まれました。それは、イエスの義、つまり私たちが「新しい命に生きる」ために現された義をまとった人です。この新しい命は、私たちがもはや罪に支配されることがないことを意味しています。私たちは数多くの勝利の約束を与えられています。問題は、私たちがそれらの約束を自分自身のものとするかどうかです。

安価な恵みと律法主義

聖書の著者たちは従順の必要性を強調しています。キリストが私たちの心に住んでおられるかぎり私たちが何をしようと問題でないと考えることは誤りです。もしキリストが本当に私たちの心に住んでおられるのなら、必然的によい行いがともなわねばなりません。

パウロは8 日目に割礼を受け、イスラエルの子孫で、ファリサイ派に属し、熱心で、落ち度のない者でした。まさに律法主義の権化でした。回心後には、これらのものが、キリストを知ることと比較すれば、廃物であると言っています。彼はキリストの義の衣を受け入れることによって義とされ、キリストに似る者になりたいと願いました。

問5 
フィリピ3:3 〜16 を読んでください。パウロはここで、信仰による救いという偉大な真理と、それが救われた者の人生において持つ意味について何と言っていますか。

私たちは、私たちのものとみなされるキリストの義と、聖霊が私たちのうちにあって私たちを変えてくださる働きとを神学的にはっきりと区別する必要がありますが、決して両者を切り離して考えるべきではありません。どちらも必要なものです。一方があって、もう一方がないのは、片面しかない硬貨のようなものです。

服従が賜物として与えられることを理解するとき、私たちは二つの誤り──神への従順なしで得られるとする安価な恵みと自分の力に頼る律法主義──から守られます。私たちは、キリストによってのみ神の前に義とされ、赦されるのと同様に、キリストによってのみ律法に従い、聖なる者とされるのです。私たちは、「キリストとその復活の力とを知り、その苦しみにあずかって、その死の姿にあやか」るために(フィリ3:10)、日毎に喜んで自己をキリストにささげているでしょうか。

まとめ

「律法は義、すなわち正しい生活、完全な品性を要求する。しかし、人はそれを提供することができない。彼は神の聖なる律法の要求に応ずることができない。けれどもキリストは、人としてこの地上においでになって、聖なる一生を送り、完全な品性を発達させられた。これらのものを、キリストは受け入れる人にはだれにでも無料の贈り物として提供される。キリストの一生は人の一生の代わりとなる。こうして人は、神の寛容によって、過去の罪がゆるされるのである。のみならずキリストは、人のうちに神の属性をうえつけてくださる。キリストは人の品性を神のご品性にかたどって、霊的な力と美しさを備えたりっぱな織物としてくださる。こうして律法の義そのものが、キリストを信ずる者のうちに成就されるのである。『神みずからが義となり、さらに、イエスを信じる者を義とされるのである』(ローマ3:26)」(『希望への光』1080 ページ、『各時代の希望』下巻288、289 ページ)。

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