恵みの衣ー聖書に見る「衣」の比喩的表現

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エリヤとエリシャの外套

預言者エリヤほど、変化に満ちた生涯を送った聖書の人物はほかにあまりいません。それは信仰と試練、この世における神の圧倒的な力についての信じがたい物語です。

今日でも、ユダヤ教において、エリヤは偉大な存在です。ユダヤ教の伝統によれば、エリヤはたぶん聖書のどの人物よりも美化されています。

たとえば、過越のときに、特別な杯にぶどう酒が注がれ、過越のテーブルの上に置かれます。過越に際して、家の扉が開け放たれ、預言者エリヤが入ってきて、それを飲むのを全員で見守ります。割礼のとき、「エリヤの椅子」と呼ばれる椅子が儀式の一部として、かたわらに置かれます。安息日が終わるときには、ユダヤ人は、エリヤが「この時代に、早く、……ダビデの子、メシアと共に、私たちを贖うために」来ることを願って、エリヤの歌をうたいます。

ペトロは福音書の中で、イエスをエリヤだと言う人もいます、と言っています(マタ16:14)。これなどは、エリヤがユダヤ人の思考の中で卓越した地位を占めていたことを示す実例です。

今週は、エリヤと、彼が着ていた外套に目を向け、そこからどんな霊的教訓を学ぶことができるかを考えます。

「静かにささやく声」

列王記上・下には、エリヤが王たちの脅迫に勇敢に立ち向かっている場面が記録されています。ところが、邪悪な王妃から脅迫されたとき、彼は自分の命のために逃げ出しています。

列王記上18 章で、エリヤはカルメル山上で天から火を呼びおろし、バアルの預言者たちを殺害し、近づいている雨についてアハブに報告しています。主の力が彼に臨んだので、彼は外套の裾をからげて、アハブの先を30 キロもイズレエルまで走っていきます。ところが、次の章では、この同じ神の人の様子が一変します。

問1 
列王記上19:1 〜4 を読んでください。これらの聖句は、たとえ私たちが過去にどれほど素晴らしい霊的勝利を経験しようとも、その後決して霊的低下がないとは限らないことを教えています。

エリヤは絶望的で、感情的な祈りをささげていますが、それでも主は彼をお見捨てにはなっていません。主は、御自分がエリヤを愛しておられること、エリヤの生涯に関心を抱いておられることをお伝えになりました。

問2 
列王記上19:5 〜18 を読んでください。エリヤが外套で顔を覆ったことにはどんな深い意味がありますか。

エリヤは激しい風や地震、火の中にあっても、外套で顔を覆いませんでした。しかし「静かにささやく声」の中にお現れになった主を見たときには、彼は外套で顔を覆いました。それは恐れと崇敬、自己防衛の反応でした。

エリヤが学ばねばならなかったのは、これらの自然力がいかに強大で、驚くべきものであったとしても、それらは神の聖霊を正しく描写するものではないということでした。エリヤは静かで、かすかな声の中に、自分のなすべきことを告げる主の御声を聞きました。彼が従ったのはこの声でした。

晴れ着

カルメル山上で目覚ましい神の力が現された後で、エリヤは主を愛する者たちの中で自分だけが生き残ったと神に語ります。しかし、エリヤが話し終えると、主は彼に命じて、二人の王とエリシャに油を注ぐように言われます。

後継者を捜すようにという主の命令に従って、エリヤはエリシャの父シャファットの農場に行き、牛を使って畑を耕しているエリシャを見つけます。エリヤがエリシャに外套をかけると、エリシャはすぐにその意味を理解します。

問3 
列王記上19:19 を読んでください。エリシャの召命はどのような方法で示されていますか。

エリヤがたとえ黙って自分の外套をエリシャにかけたとしても、エリシャには預言者エリヤのした行為の意味がわかりました。エリヤは神の預言者の象徴である自分の外套をエリシャの肩にかけたのです(民20:28 参照)。この象徴の意味は明らかです。エリシャは今、聖なる召命を与えられたのでした。

問4
聖書のほかの個所を見ると、通常の外套(また、上着などの衣)は必ずしも神に奉仕するようにという招きの印であるとは限りません。しかし皮衣の外套は(列王紀下1:8)、バプテスマのヨハネの外套のように、預言者の象徴ではありませんでしたか。

ここでは、エリヤの外套は毛衣で、他の人の外套とは違っていたでしょう。「エリヤは神の指導のもとに後継者を求めながら、エリシャが働いていた畑を通り過ぎ、青年の肩に献身の外套をかけた。シャパテの家族は、飢饉の間に、エリヤの働きと任務とをよく知るようになった。そして、今、神の霊は預言者の行動が何であるかを、エリシャの心に印象づけたのである。彼にとって、これは、神が彼をエリヤの後継者として召されたしるしであった」(『希望への光』474 ページ、『国と指導者』上巻187、188 ページ)。

粗布を着る

イスラエルの王アハブは宮殿のそばにあるぶどう畑を手に入れたいと思いました。それはイズレエル人ナボトの所有地でした。ナボトは土地を売ることを拒みます。それを聞いたイゼベルは激怒し、策略を用いてナボトを殺します。ナボトの死後、アハブはぶどう園を手に入れますが、エリヤはアハブに対する神の裁きの宣告を伝えます。

「彼に告げよ。『主はこう言われる。あなたは人を殺したうえに、その人の所有物を自分のものにしようとするのか。』また彼に告げよ。『主はこう言われる。犬の群れがナボトの血をなめたその場所で、あなたの血を犬の群れがなめることになる』」(王上21:19)。

いくつかの重大な問題に関してアハブと対決するというエリヤの使命は相当なストレスを彼に与えたはずです。しかし、少なくともここでは、生命の危険を知りながらも、彼は気丈に主の命令に従っているように思われます。エリヤは今、犬がアハブの血をなめるという、主がアハブに宣告される告発を彼に伝えねばなりませんでした。

問5
列王記上21:21 〜29 を読んでください。アハブの応答についてどのように考えたらよいですか。これらの聖句に言及されている彼の本性に照らして考えてください。

宣告の言葉を聞いたとき、アハブはきわめて謙遜な態度で主の前にへりくだり、衣を裂き、粗布を身にまとい、断食します(王上21:27)。その後の記述は彼の悔い改めと謙遜が本物であったことを暗示しています。自分の衣を裂くことは恐れと悲しみを表す当時の一般的な行為でした。それは、アハブが自分に与えられたエリヤの言葉を真心から真理として受け入れたことを示していました。衣を裂くという行為がその時点における彼の心の誠実さを示しているということです。

エリヤの昇天

エリヤは確かに劇的な時代を過ごしてきました。列王記下1 章の感動的な物語に続いて、2 章にはさらに胸の躍るような物語が記されています。エリヤは栄光の炎のうちに世を去りました。

問6 
列王記下2:1 〜18 を読み、次の設問に答えてください。

1.エリヤから三度も同じことを要求されたのに、エリシャがエリヤと別れるのを拒んだ理由は何だったと思いますか。

2.エリシャが自分の衣を裂いたのはなぜですか。それは嘆きのためですか。それともほかの理由からですか。もしほかの理由からだとすれば、どんな理由ですか。

明らかに、エリシャの応答は心からの喜びと感謝から出たものでした。確かに、彼は戦車と馬を見ました。確かに、彼はエリヤの力の二つの分を受けるのでした。一般的には、衣を裂くことは嘆きの表現ですが、ここでは、エリシャは感動のあまり、感謝の気持ちから衣を裂いたのかもしれません。エリシャの手にはエリヤの外套がありました。彼が自分の外套を裂いたことは、自分の外套を脱いで、エリヤの外套を着ることを象徴していたとも考えられます。

エリヤが初め、自分の外套を農夫のエリシャにかけたとき、二人とも、この行為が神の働きに召されることの象徴であることを知っていました(エリシャは後日、外套をエリヤに返したのでしょう)。エリシャは今、この特別な外套を手にしていました。それは、彼がエリヤのように指導者の責任を遂行することを意味していました。

テシベ人エリヤからエリシャが受けた衣は、おそらく「毛衣」で「皮の帯」も付いていたでしょう(列王紀下1:8)。それ以後預言者でない者は、「毛の上着」を着て預言者のふりをすることは、人を欺くことでした(ゼカリヤ書13:4)。

エリシャの外套

「エリヤの着ていた外套が落ちて来たので、彼はそれを拾い、ヨルダンの岸辺に引き返して立ち、落ちて来たエリヤの外套を取って、それで水を打ち、『エリヤの神、主はどこにおられますか』と言った。エリシャが水を打つと、水は左右に分かれ、彼は渡ることができた」(列王記下2:13、14)。

問7 
これはどんな物語を想起させますか。そこには、どんな重要な象徴的意味が込められていますか。

問8
列王記下2:15 〜18 を読んでください。エリコの預言者たちの立場になって考えてください。エリヤが取り去られたことを知っていながら、彼らがエリヤを捜そうと言い出したのはなぜだと思いますか。

先の聖句からも明らかなように、預言者たちはエリヤが取り去られようとしていることを知っていました。エリヤの後継者だけがその出来事を見ることができることから、エリシャ以外のだれもエリヤが昇天したことを知りませんでした。彼らはエリヤがなお「どこかの山か谷に」いるかもしれないと考えました(16 節)。彼らは主がエリヤに何かほかのことをされたのだと考えました。しかも、エリシャからエリヤを捜すには及ばないと言われていたのに、彼らはどうしても捜すのだと言い張りました。彼らが事の真相に気づいたのは、たぶんエリヤを発見できずに帰ってきてからのことでしょう。それでも、まだ疑う余地がありました。主が自分たちの捜していない山や谷にエリヤを置かれたかもしれないからです。

信仰生活には、私たちは信仰を働かせる必要があります。神は信仰を働かせなくともすむほどには、すべてのことをお知らせになりません。そうでなければ、信仰によって救われるはずの信仰が育ちません。

まとめ

「エリヤは、死を見ないで天へ移された人だったので、キリストの再臨の時に地上に生存していて、『終りのラッパの響きと共に、またたく間に、一瞬にして変えられ、……この朽ちるものは必ず朽ちないものを着、この死ぬものは必ず死なないものを着る』人々を代表していた(Iコリント15:51、53)。イエスは、『罪を負うためではなしに二度目に現れ』たもうときに見られるお姿と同じに天の光を着ておられた(ヘブル9:28)。なぜなら、彼は『父の栄光のうちに聖なる御使たちと共に』こられるからである(マルコ8:38)」(『希望への光』892 ページ、『各時代の希望』中巻193 ページ)。

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