恵みの衣ー聖書に見る「衣」の比喩的表現

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衣に関するその他の比喩的表現

ある意味で、聖書の中の着物から多くの教訓を集めることができるのも、当然と言えば当然かもしれません。というのは、着物はじつに私たちの一部であって、私たちについて、また私たちがどのような人間であるかについて、多くのことを沈黙のうちに語るからです。私たちはしばしば、よい意味でも悪い意味でも、人がどんな物を着ているか、あるいはどんな着方をしているかによって、その人を判断します。

今週の研究では、着物の問題を、イエスとの関連において考えます。まず初めに、イエスの衣に触れるだけでいやされると信じた女について学びます。次に、弟子たちの足を洗うために、御自分の上着を脱がれたイエスについて学びます。次に、イエスの前に立って、自分の衣を裂いた大祭司について学びます。それはこの傲慢な支配者の運命を決定することになりました。次に、ローマの兵士たちによって嘲りの衣を着せられたイエスについて学びます。最後に、キリストの衣をくじ引きにした兵士たちに目を向けます。それによって預言が成就しました。それは単なる着物かもしれませんが、象徴と意味に満ちています。

「わたしの服に触れたのはだれか」

マルコ5:24 〜34とルカ8:43 〜48 に、「12 年間も出血の止まらない女」のことが記されています。この病気は、病状そのものの危険性に加えて、当時の社会にあっては儀式的な汚れという恥辱をもたらし、そのことがまた彼女の不幸を大きくしていました。医者も全く無力でした。彼女は苦しみのあまり全財産を使い果たしましたが、病気は悪くなる一方でした。当時の医療技術を考えれば、驚くことではありません。彼女が病気のためにどれほどの苦しみと恥辱を味わっていたか、私たちにはほとんど想像することができません。そこに、数々の信じ難い奇跡を行っているイエスが来られます。

問1
マルコ5:24 〜34、ルカ8:43 〜48 を読んでください。女は、どうして「せめてイエスの服にでもさわればいやされるだろう」と思いましたか。

この女は、もしイエスの服にでも触れることができれば、治していただけるだろうと思うほどに、イエスを必要としていました。彼女をいやしたのは服そのものでもなければ、服に触れたことでもありませんでした。彼女をいやしたものは、絶望の中で、自分の無力さと必要を認め、信仰をもって主のもとに来る者のうちに働かれる神の力でした。彼女がイエスの服に触れた行為は、行いに現された信仰を示しています。ここに、キリスト教の本質が見られます。

問2
どうしてイエスは御自分の服に触れたのはだれかと言われましたか。

イエスは、彼女のいやしを公にすることによって、女が周囲の人々に証しをするのを助けられました。イエスは周囲の人々に何が起こったのかを明らかにすると同時に、おそらく女に対しても、いやしをもたらしたのが御自分の服の持つ魔力ではなく、信仰の行いを通して彼女のうちに働いておられる神の力であることを知らせようとされたのです。彼女はこれまでの病気がいやされ、キリストが自分にしてくださったことを証しすることができました。

「上着を脱ぎ、手ぬぐいをとって腰にまき」

地上生涯も終わりに近づいていたとき、キリストは二階の広間で弟子たちと共に過越祭をお祝いになりました。それは、イスラエルがエジプトによる支配と隷属から解放されたことを祝う行事でした。しかし、二階広間の雰囲気は緊張と悪感情で満ちていました。少し前には、弟子たちはだれが天国において最高位に就くのかをめぐって争っていました。そして、彼らは今、神の救いの必要性について教える過越を祝うために集まっていました。

問3
マタイ20:20 〜28 を読んでください。今までイエスと共に過ごしていながら、弟子たちはどんな重要な教訓を学んでいませんでしたか。

悪感情に満ちた弟子たちの態度だけでは十分でないかのように、裏切り者のユダが何食わぬ顔で同席していました。このようなキリストの弟子にふさわしくないもろもろの状況に対して、イエスはどうされるのでしょうか。

問4
ヨハネ13:1 〜16 を読んでください。それはイエスの弟子となることの本質について何を教えていますか。

町のほこりにまみれた足を洗う用意をすることは弟子たちの習わしでした。それは召使いの仕事でした。しかし、弟子たちには召使いがいませんでした。弟子たちのなかには、だれも進んでこの卑しい務めをする者はいませんでした。イエスが御自分の服を脱ぎ、弟子たちの足を洗い始められたとき、弟子たちの心は砕かれました。彼らはイエスを神の御子と宣言していました。その神の御子が身をかがめて召使いの仕事をされるのを見て、彼らは恥じ入りました。弟子たちの足を洗う前に、イエスは御自分の上着を脱がれたとありますが、これは御自分に従う者たちのいるところまで喜んで身をかがめ、へりくだられるイエスの積極性を示しています。

私たちの足を洗うイエス様

しかも、イエスはユダの足をもお洗いになりました。イエスはユダの心の中を完全に見通しておられ、ご自分を裏切ることを知っておられました。

「衣服を裂い……てはならない」

「同僚の祭司たちの上位に立ち、聖別の油を頭に注がれ、祭司の職に任ぜられ、そのための祭服を着る身となった者は、髪をほどいたり、衣服を裂いたりしてはならない」(レビ21:10)。ここで「髪をほどく」というのは、悲しみの表現として髪をかきむしり、ばらばらにすることです。

問5
マタイ26:59 〜68 を読んでください。大祭司はキリストの返答に対する応答として自分の服を引き裂いていますが、これにはどんな意味があると思われますか。マコ15:38、ヘブ8:1 参照

大祭司が服を引き裂いたのは、キリストの言葉に対する反対を態度で示すためでした。それはカイアファの怒りの象徴、また自分を神の御子であるとするイエスの主張を冒瀆とみなし、激しい反対の思いを表すものでした。モーセの律法は、大祭司が服を裂くことを禁じていました(レビ10:6、21:10)。なぜなら、大祭司の服は神の品性の完全性を象徴していたからです。その服を裂くことは神の品性を冒?すること、その完全性を汚すことでした。したがって、皮肉なことに、カイアファは自分の擁護する律法そのものを犯したのでした。彼はその役職にふさわしい人物ではありませんでした。理にかなった言い方をすれば、服を裂くことは死に値する行為でした。最大の皮肉は、何ひとつ悪いことをされなかったイエスが死に値することを行った大祭司に扇動されて死刑にされることでした。

カイアファが大祭司の服を裂いたことには、象徴的な意味がありました。それは地上における犠牲制度と祭司職全体の終わりを象徴するものとなりました。キリストが新しい大祭司として天の聖所で奉仕されるときに、新しい、さらにすぐれた制度が始まるのでした。

宗教指導者たちは憎しみとねたみ、恐れのゆえに、この上なく無知となりました。彼らの多くは、自分たちの宗教の実体であるキリストが来られたときに、彼を認めませんでした。代わりに、一般の民衆がイエスをメシアとして受け入れ、これらの祭司たちのなすべき務めを引き継ぐことになりました。

嘲りの衣

「それから、総督の兵士たちは、イエスを総督官邸に連れて行き、部隊の全員をイエスの周りに集めた。そして、イエスの着ている物をはぎ取り、赤い外套を着せ、茨で冠を編んで頭に載せ、また、右手に葦の棒を持たせて、その前にひざまずき、『ユダヤ人の王、万歳』と言って、侮辱した」(マタイ27:27 〜29)。

問6
ここに記されている出来事について考えてください。どんな恐ろしい侮蔑を見ることができますか。これらの聖句は人間の無知と残酷さ、愚かさについて何を教えていますか。それらは創造主また贖い主に対する世の態度をどのように象徴していますか。ルカ23:10、11、マコ15:17 〜20 参照

イエスは着物をはぎ取られ、緋色の衣を着せられました。この衣は兵士の外套または古くなって捨てられたピラトの着物だったと思われます。緋色の衣はイスラエルの最初の王サウルが着た着物でした(サムエル下1:24)。彼らは嘲って、王であると主張したイエスの肩にこの衣をかけたのでした。

言うまでもなく、王には王冠が必要です。イエスを虐待する者たちはパレスチナ地方に生えている鋭いとげを持つ潅木(かんぼく)で冠を作り、それをイエスの頭に載せ、王の笏をまねた葦の棒をイエスの手に持たせました。彼らは嘲ってイエスの前にひざまずき、「ユダヤ人の王、万歳」と言います。祭司たちの嘲りはキリストの霊的権威に対するものでしたが、兵士たちの嘲りはキリストの政治的主権に対するものでした。真の王イエスは嘲りの衣を着せられ、人々に嘲られながら引き回されました。御自分の義と完全の衣をもって罪深い世界を包もうとされたお方が嘲りの衣を着せられたのです。

十字架と3本のくぎ。緋色の着物と薔薇の冠の画像

それでも、信じ難いことに、イエスは御自分を虐待する者たちを含めて全人類に対する愛のゆえに虐待に耐えられました。私たちはどうでしょうか。他人から虐待され、侮辱されたときに、怒りをあらわにし、仕返しをしようとしていないでしょうか。イエスはこのような虐待に耐えることによって、私たちに模範を残されたのです。

「彼らはわたしの服を分け合い」

「わたしの着物を分け 衣を取ろうとしてくじを引く」(詩編22:19)。

兵士たちの嘲りを受けた後、イエスは十字架のもとに引き出され、そこで地上の持ち物のなごりである服を脱がされます。拒まれ、鞭打たれ、卑しめられ、嘲られ、服をはがされ、十字架につけられたイエスは、まさに「天地創造の時から」定められていた苦い杯を飲んでおられたのでした(黙13:8)。

問7
ヨハネ19:23、24 を読んでください(マタ27:35 参照)。聖書はこの事件に対してどんな預言的意味を与えていますか。その重要性はどこにありますか。

目の前に宇宙における最大の事件が繰り広げられているというのに、兵士たちは犯罪人の着物を分け合うという浅ましい行為を行なっていました!

しかしながら、彼らの行為そのものは決して些細なことではありません。なぜなら、聖書の中に、彼らの行為が預言の実現であったと書かれているからです。ヨハネはそれを直接、詩編と結びつけ、それが起こったのは「聖書の言葉が実現するためであった」と記しています。それによって、私たちの信仰にさらなる証拠を与えています。

そのとき、世の罪の重みがイエスの上にのしかかり、父なる神との隔絶が彼を押しつぶしていました。そして今、自分の足もとで、兵士たちが着物を分け合い、くじを引いているのを、イエスはご覧になります。すべてが預言に記されている通りでした。このことはイエスに十字架の苦しみに耐える特別な勇気を与えたことでしょう。兵士たちによるこれらの行為は、イエスの試練がいかにつらいものであっても、その苦しみがいかに恐ろしいものであっても、預言が実現していることの、またイエスの地上の働きが輝かしいクライマックスに近づいていることの、そして信仰によって求めるすべての人に救いを与える用意がなされることのさらなる証拠でした。それゆえに、イエスは耐えねばなりませんでした。そして、耐えられました。

まとめ

「敵どもはいらだちながらイエスの死を今か今かと待ちかまえていた。イエスの死によって、イエスの天来の能力と不思議な御業についてのうわさは永遠に打ち消されるのだと、彼らは想像した。その時こそ、もはやイエスの影響を恐れる必要はないと、彼らはうぬぼれた。イエスのからだを十字架にはりつけた非情の兵士たちは、イエスの衣類を分けるのに、縫い目なしに織られた一枚の衣を争った。それはついにくじ引きで決められた。霊感の筆は、この光景をすでに数百年以前に正確に描いていた。『犬どもがわたしを取り囲み、さいなむ者が群がってわたしを囲み、獅子のようにわたしの手足を砕く。……わたしの着物を分け、衣を取ろうとしてくじを引く』(詩編22:17、19)」(『生き残る人びと』258 ページ)。

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