恵みの衣ー聖書に見る「衣」の比喩的表現

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高い地位から落ちる

今日の暗唱聖句(エゼキエル書28:15)はあらゆる啓示の中でも最も深遠なものの一つでしょう。完全と悪という二つの言葉は重要です。完全は健全の意味があり、神との健全な関係を表す言葉です。ルシファーは健全な状態に創造されましたが、悪を行えないロボットのようには造られませんでした。自由意志を正しくも不正にも働かすことのできる能力が与えられていたのは人も同じです。ルシファーの「不平と不満の精神は、……初めての不可解な、説明することのできない新しい要素であった」(『人類のあけぼの』上巻10 ページ)。ルシファーは「神が被造物にお与えになった自由を悪用した」(同4)のでした。たとえ「健全」に創造されても、不平と不満という不可解な悪を生じる可能性を含んでいました。

この聖句が教えていることは、神の宇宙においては、最初は神と被造物との関係は「健全」でしたが、自由の悪用によって、天に不一致という悪が生じました。人間以上の被造物には選択する能力が与えられています。この能力がなかったら、人間は道徳的で、自由な存在とは言えません。

ここで問題となるのは、その衣裳と覆いが聖書に特筆されるほどに高い地位にあったルシファーが、自分に与えられた自由を乱用し、主から離れてしまったのです。彼の悲劇的な過ちから何を学んだらよいのでしょうか。

すべての被造物の創造者

私たちの神は創造主です。ヨハネ1:1 〜3 にも明示されているように、すべてのもの、つまりかつては存在しなかったが、ある時点から存在するようになったものはすべて、主の創造によって存在するようになりました。

問1 
「何もないのではなく、何かがあるのはなぜか」という質問をした人がいます。これはたぶん、なしうる質問の中でも最も基本的な質問でしょう。ヨハネ1:1 〜3 を読んでください。この質問に何と答えていますか。

いわゆる宇宙大爆発発生論に照らして考えるとき、この質問は興味深いものです。この理論によれば、私たちの宇宙は、多くの人々が考えてきたように、永遠のものではなく、何十億年も前に出現したことになっています。この理論の真偽は別として、多くの人はそれを何らかの神、創造者が存在することの証拠と考えています。なぜなら、宇宙の大爆発が起こるためには、多くの科学、多くの物理学、多くの数学方程式が必要だったからです。それに、ある科学者が問いかけているように、「だれがさまざまな方程式に火を吹き入れたのでしょうか」。それは神であると私たちは考えます。

今日、科学者たちは、この宇宙には私たちの知り得ない、いわゆるダークマター[目に見えない物質]とダークエナジー[その正体すらわからない力]で満ちた広大な領域があると推測しています。つまりは、宇宙の果てに何があるのかは私たちにはほとんどわからないということです。

問2 
コロサイ1:16、17 を読んでください。大部分が私たちの目には見えないどのようなものを、神はほかに創造されましたか。このことは、私たちが現実の知識に関していかに謙虚であるべきかについて何かを教えていますか。

美しく、完全な存在者

神によって創造されたものの中に、天使の群れがいました。その天使の群れの長がルシファーでした。エゼキエル書28 章はおそらく当時一般に知られていたルシファー物語を引用してティルスの君主の堕落を記録しています。

問3 
エゼキエル書28:12 〜19 を読んでください。ルシファーはここで、どのように描写されていますか。彼は何によって包まれていましたか。それは何を意味しますか。

イザヤ書14:12 には、ルシファーが「曙の子」と呼ばれています。それによって、神は彼を堕落していない者として描いておられるのです。エゼキエル書28:12 で、神はルシファーを、「お前はあるべき姿を印章としたもの」と描写しておられます。これは「お前は完全さを印章にしたもの」という意味になります(『SDA 聖書注解』第4 巻675 ページ、英文)。

ルシファーはまた、「明けの明星」、「輝くもの」と描写されています(イザ14:12、米国標準訳、新リビング訳)。ヘブライ語の“ヘーレール”(輝くもの)とその同義語は、明けの明星として出現する惑星金星をさしています。

金の台座につけられたルビー、ダイヤモンド、黄玉、緑柱石、縞めのう、碧玉、サファイア、エメラルド、かんらん石、トルコ石の衣裳を想像してください。私たちはルシファーの衣裳の色を思い描こうとするかもしれません(赤、黄色、緑、淡青色、青緑色、黄緑色)。そのような光輝に飾られ、最高の地位にある天使として、ルシファーはほかのすべての天使の尊敬を受けていたに相違ありません。

天使たちは創造主の麗しさを反映し、天の調和に満ちた楽園の中で生きる特権のゆえに創造主を賛美しました。彼らは絶えることのない、無類の、愛に満ちた環境の中で生きることができました。

この天の環境においては、調和と完全、愛、崇敬が支配していました。これは私たち人間にはほとんど想像できない光景です。

完全であった者の堕落

私たちの限られた能力をもって想像したとしても、ルシファーは信じ難いほど立派な外観を備えた存在者だったに違いありません。もう一度、エゼキエル書28章に描かれている彼の容姿を見てください。彼は賢明で、麗しく、あらゆる宝石に覆われています。彼はまさに傑出した存在でした!

エゼキエル書28:13 を注意深く読むと、一つの興味深い点に気づきます。聖句は、彼が身に着けていたあらゆる宝石に言及した後で、「それらはお前が創造された日に整えられた」と述べています。ルシファーの衣裳、衣そのものは彼の高い地位を反映していました。衣は私たちの立場と地位を如実に表す場合があります。このように、もし衣が何かを暗示するとすれば、ルシファーは高い地位にあって、尊敬される存在、権威と影響力を備えた存在であったことになります。

問4 
エゼキエル書28:17 を読んでください。この聖句によれば、ルシファーの堕落を助長したものは何でしたか。私たちはこのことからどんな重要な教訓を学ぶべきですか。

皮肉を込めた言い方かもしれませんが、ルシファーの素晴らしい衣裳、麗しい風貌、すぐれた知恵はどこから来たのでしょうか。言うまでもなく、彼の持ち物、業績、素晴らしい「衣」のすべては、神から与えられたものでした。彼は一つの被造物であって、その衣裳、麗しさ、知恵はすべて神からの賜物でした。創造主を離れては、彼は何も持たない、無に等しい存在でした。それなのに、どういうわけか、神のそば近くにいた者がこの重要な事実を忘れていました。

問5 
申命記8:1 〜18 を読んでください。ここに記されている原則はルシファーの経験にどのように反映されていますか。

神になろうとする

「お前は神の聖なる山にいて 火の石の間を歩いていた」(エゼ28:14)。

エゼキエルがルシファーを神の山にいるものとして描いていますが、それは神がこの被造物に与えられた高い地位と彼に与えられた特権を示していました。聖書のほかの記事も、山における経験が重要な意味を持っていたことを示しています。たとえば、モーセは神に会うために山に登り(出19:20)、イエスと3 人の弟子たちは高い山の上に登り、イエスの姿がそこで変わっています(マタ17:1、2)。

「お前は神の聖なる山にいて 火の石の間を歩いていた」という聖句の中で、預言者エゼキエルは神の臨在を表すために「火の石」の象徴を用いています。主はこのようにして、モーセやアロン、その他の指導者たちにお現れになりました。「彼らがイスラエルの神を見ると、その御足の下にはサファイアの敷石のような物があり、それはまさに大空のように澄んでいた」(出24:10)。

ルシファーはあらゆる特権を与えられていたにも関わらず、誤った思想が心に入り込み、心を毒するにまかせました。この思想は、ついには彼を反逆の行動へ導くことになりました。

問6 
同じくルシファーの堕落について描いているイザヤ書14:12 〜14 を読んでください。ここに、どんな原則が働いていますか。誘惑と葛藤の中にある私たちはここから何を学ぶことができますか。

古代ローマ人はしばしば、皇帝が死ねば神になると信じていました。皇帝ヴェスパシアヌスが臨終の床で、「ああ、わしもいよいよ神になるのか」と言ったのはそのためです。

神のように振る舞う誘惑は、私たちが考えている以上に陰険です。人の動機を裁くとき、自分に与えられていない特権を行使するとき、不当な方法で人を支配するとき、私たちは神のように振る舞おうとしていないでしょうか。

地上でのサタン

「だが、驚くには当たりません。サタンでさえ光の天使を装うのです」(II コリ11:14)。

サタンの堕落は天ばかりでなく、地にも影響を及ぼしました。天におけるサタンの堕落と反逆に続いて、この地上においては、キリストとサタンとの「大争闘」に発展しました。それは熾烈であって、私たち全員に関係があります。

問7 
黙示録12:7 〜12 を読んでください。これらの聖句は何について述べていますか。それらはどんな警告と希望を与えていますか。

イエスが十字架において私たちのために成し遂げてくださったことのゆえに、私たちは最後にどうなるかを知っています。キリストの完全な衣によって覆われているすべての人に、勝利が約束されています。それゆえに、なるべく多くの人が救いの義にあずからないようにしようと、サタンは懸命に働きます。救いの義が彼らに永遠の場所を保証するものだからです。

問8
手紙の背景に注意しながら、コリントII の11:14 を読んでください。この聖句は私たちにどんな重要なことを教えていますか。

サタンはさまざまな方法によって私たちを欺き、私たちをキリストとの救いの関係から逸らそうとします。自分の目的を果たすためなら、サタンはほかのクリスチャンでさえ用います。そうすることは彼の最も効果的な策略の一つです。

霊的危険は私たちの周囲の至るところに潜んでいます(Iペト5:8)。しかしながら、私たちの戦っている敵は敗北した敵です。悪魔は敗北したので、その滅びは確実であり、その統治は終わります。しかし、私たち自身の力では、サタンと戦い、勝利することはできません。私たちのただ一つの希望はすでにサタンを打ち破られたお方、すなわちイエスにあります。

まとめ

「サタンが神の民を暗黒に閉じこめて、滅ぼそうとする時、キリストはみ手を下される。彼らは、罪を犯しはしたが、キリストが彼らの罪の重荷をご自分の魂の上にせおってくださった」(『希望への光』1250 ページ、『キリストの実物教訓』150 ページ)。 「罪は聖なる天使たちのかしらであった者の変節によって世に入った。気高く、尊敬された神への奉仕者を背信者に変えるほどの大きな変化をもたらしたものは何だったのか。その答えが与えられている。『お前の心は美しさのゆえに高慢となり、栄華のゆえにあなたの知恵を退廃させた』[エゼ28:17]。もし主が翼で覆うケルブをこれほど美しい者とし、御自身の姿にこれほど似た者としておられなかったなら、もし神が彼に特別な栄誉を与えておられなかったなら、もし美と力と栄誉の賜物において何か一つでも欠けていたなら、サタンは何らかの弁解をすることができたかもしれない」(エレン・G・ホワイト『世界総会日報』3 月2 日、1897 年)。

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