恵みの衣ー聖書に見る「衣」の比喩的表現

目次

キリストを身にまとう

生卵を落として、それがぐちゃぐちゃになるのを見たことがありますか。しかし、落ちて、ぐちゃぐちゃになった卵が再び落ちて、もとの卵に戻るのを見たことは絶対にないはずです。それが現実の世界というものです。

自然界、つまり堕落した私たちの自然界の基本的な法則は、物質は腐敗と無秩序に向かう傾向にあるということです。何かを放置すると、その力や秩序、構造は増加に向かうでしょうか。それとも減少と腐敗、無秩序に向かうでしょうか。答えは明らかです。それは私たちの周囲に、また私たち自身のうちに起こっています(たとえば、人間の老化)。

高度化した科学がこの現象を説明しようとしますが、別に物理学博士でなくても、そのことを理解することができます。聖書にも、「地が衣のように朽ち」と書かれています(イザ51:6)。

しかし、そのような中にあって、私たちには福音、救いの計画が与えられています。その中心は回復すること、つまり古いもの、破れたもの、腐敗したものが新たになることです。

最後の週の研究では、聖書に記されている特別な衣の比喩的表現について学びます。それらは再生と回復の約束について啓示しています。

約束による相続人

キリスト教会が最も初期の時代から抱えていた重要な問題の一つ、またプロテスタント宗教改革の中心にあった問題、現在の私たちの教会においても、さまざまなかたちで続いている問題は、福音、救い、私たちが救われる方法の問題と関連があります。パウロはガラテヤ教会を悩ませていたこの問題と真正面から、直接的に対処しなければなりませんでした。偽りの教理が入り込み、健全な福音を脅かしていたからです。

問1
ガラテヤ3:26 〜29 を読んでください。パウロがここで強調していることは何ですか(特に「着ている」という言葉に留意してください)。

パウロは27 節で、バプテスマを受けた人たちは皆、「キリストを着ている」と言っています。すべての人は罪人でしたが、その罪は洗い流され、その古くて汚れた着物に替えて、今やイエスの義を「着せられ」、イエスの義で覆われたのでした。彼らは今、キリストの命、キリストの完全、キリストの品性を自分自身のものであると言うことができます。すべての契約の約束はイエスにおいて実現しました。キリストを着ている今、彼らはこれらの約束を自分自身のものと言うことができます。彼らがアブラハムへの約束(創12:2、3)の相続人であるのは、地位や性別、国籍によるのではなく、ただキリストを信じる信仰によるのです。

問2
ローマ6:1 〜6 を読んでください。パウロがここで述べていることは、キリストを「着る」ことの意味を理解する上でどんな助けになりますか。

キリストを着ていることは単に神と法的な関係にあること以上のことです。クリスチャンはキリストと結ばれ、キリストに献身しています。彼らはキリストを通して新たにされ、若返らされ、回復されています。自分の古い生き方、古い習慣、古い生活スタイルを変えようとしないクリスチャンは、自分の真の姿を鏡に映してながめる必要があります。

「NEW LIFE(新しい人生)」と「OLD LIFE(古い人生)」と書かれた道案内の看板

肉に心を用いない

キリスト教はイエスと一体であって、イエスを離れてはあり得ません。それはイエスに関するもの、つまり御自分の命と死、大祭司の務めを通して、堕落した人類のために成し遂げてくださったイエスの御業に関するものです。それは、私たちが変わること、再生すること、新たに生まれることです。それはキリストに結ばれて新たな人生を送ることです。

問3
ローマ13 章を読んでください。ここで、パウロはクリスチャンに対してどんな日毎の実践的な教えを説いていますか。

13 章の大半はよき市民、よき隣人になることについて教えています。それは律法の原則の繰り返しであって、「隣人を自分のように愛しなさい」という言葉に要約されます(9 節)。

しかしながら、11 〜14 節では、パウロは現在の政治勢力に従うように説くことからこの章を始め、次に時が「近い」ことを強調しています。ローマの信徒が生きている時代を考慮すれば、慎重に行動する必要があったからでしょう。

ローマ13 章の前後関係を見れば、パウロが基本的に何を言っているかがわかります。14 節以前の聖句と14 節の後半部分を見ると、キリストを身にまとうとは信仰と服従の生活を送ることを意味することがわかります。「身にまとう」と同じギリシア語の語根は「光の武具」を身に着けることに関連して12 節にも出てきます。キリストは世の光です。キリストに結ばれて歩む者たちは闇のうちを歩むことがありません。彼らは「闇の行いを脱ぎ捨てて」、今や光のうちを歩みます。キリストを「身にまとう」ことは、品性の向上、キリストが愛されたように愛すること、そしてキリストの姿を反映することを意味することは確かです。私たちの周囲のものはすべて悪くなる一方ですが、キリストを身にまとった者たちはさらなる高みをめざします(II コリ3:18 参照)。

脱いで、着る

問4
コロサイ3:1 〜10 を読んでください。10 節にある「身に着ける」という動詞がこれまでにも出てきた「身にまとう」という同じ動詞から来ていることに注意してください。これらの聖句は何を教えていますか。

これまでに学んだいくつかの聖句と同様、学者たちはこれらの聖句もバプテスマに言及していると考えています(聖句のどこにそのヒントがあると思いますか)。ここにも、新生と再生、以前にまさるものについての思想がはっきりと示されています。キリストに結ばれるとき、私たちはもはや、以前の生き方の、以前の自分ではありません。パウロはここでも、私たちが今、キリストについて経験することと、キリストの再臨において経験することとを、はっきりと関連づけています。まさに、キリスト初臨に対する私たちの応答はキリスト再臨における私たちの運命を決定づけるのです!

問5
エフェソ4:22〜24を読んでください(24節のギリシア語動詞は「着る」)。パウロはここでも何を強調していますか。

「古い人」と「新しい人」が対比されていることに注意してください。原則としては、「古い人」、つまり以前の自己が死に(バプテスマによって象徴される)、「新しい人」、つまりキリストにおいて新しく造られた者が生まれます。ここでも、キリストまたは「新しい人」をまとうという思想がクリスチャンの行いという文脈において現れます。前後の聖句を読んでください。私たちがここで扱っているのは品性と行動、人の道徳的存在そのものが造り変えられるということです。この主題、思想は絶えず繰り返します。バプテスマを受けたクリスチャンとして、私たちは主に結ばれた新しい人です。キリストを「身にまとう」とは、単に神の前に新たな法的地位を与えられることの比喩ではありません。キリストを身にまとうとは、新しい人、つまり「真理に基づいた正しく清い生活を送る」人となることです(エフェ4:24)。

一瞬のうちに

言うまでもなく、キリストを身にまとうとは、キリストにあって新しい人となることです。それは、少しでも、「造り主の姿」に回復されることです(コロ3:10)。多くの人々の生き方が、主が彼らの内にあって、彼らのために何を成し遂げてくださったかを証ししています。たとえ欠点や悩み、失敗があったとしても、私たち自身の生き方もまた、キリストを身にまとうことの意味を証ししています。

もし私たちのためにキリストがいくら働いてくださっても、私たちの生命がこの世の生涯をもって終わるのなら、私たちがキリストを身にまとっていても、いなくても、最後には死がなお私たちを待ち受けているのです。多くの人がこの世において、イエスのゆえに、また自分の信仰のゆえに、多大の苦しみを味わってきました。再臨前の報いがどのようなものであれ、それらはキリスト再臨において私たちを待ち受けている真の報いと比べれば全く取るに足らないものです。

問6
コリントIの15:49 〜55 を読んでください。ここに、どんな大いなる希望が述べられていますか。

53 節と54 節で用いられている動詞(「着る」)は、これまでも学んできた動詞と同じです。しかし、ここでは、使徒は全く新しい視点からそれを眺めています。キリストを身にまとうとは、単にイエスの道徳的模範に従うこと、イエスの品性を反映すること、イエスの教えられた原則を実践することだけを意味するのではありません。それは根本的な「物理的」変化を含むものです。私たちの死すべき肉体が、復活されたイエスが持っておられたのと同じ不死の体をまとうようになるのです。これが、晴れ着を着る、新しい衣を身にまとうということです! これが、私たちを待ち受けている究極の希望、私たちの信仰を真に価値あるものとする唯一の希望です(Iコリ15:12 〜19 参照)。

私たちの天の住みか

問7
コリントII の5:1 〜4 を読んでください。パウロはここで何と言っていますか。どんな希望が再び与えられていますか。着物のたとえがどのように組み込まれていますか。

この世、この体、この「家」にあるうちは、私たちは「苦しみもだえる」ことでしょう。現在の私たちの肉体である「地上の住みか」にあって、苦しみもだえたことのない人はいないでしょう。先の章(Iコリ4 章)は、イエスの弟子たちがこの世において直面する悩みについて述べています。その後で初めて、パウロは今日の聖句に移行しています。

確かに、私たちは呻(うめ)き、苦しみ、死にますが、それですべてが終るわけではありません。私たちは「天の住みか」を着る約束を与えられています。

問8
パウロはどんな二つの隠喩(ひゆ)を用いて、私たちの現在の状態、私たちを待ち受けている希望を描写していますか。

いくつかの古代の文献には、着物を着ていることが家の中にいるのと同じ意味に理解されています。着物も家も私たちの外側にあるもので、どちらも一定の保護と覆いを提供しています(パウロの時代には、貧しい階級の身に着ける着物の名は「小さな家」を意味する言葉から来ていました)。理由がどうであれ、パウロは異なった比喩を用いて二つの基本的な思想を対比しています。この世の一時的な住みかと天の永遠の住みか、裸であることと着物を着ていること、死ぬべき運命と命、キリストにある永遠の命。結局のところ、これらの比喩はみな同じこと──私たちがキリストの再臨において不死の体を着る、宿すという希望──について述べています。これらの聖句は、私たちがイエスによって与えられている永遠の命の約束を別の言い方で表したものです。

まとめ

「すべての人が賛美と感謝の衣──キリストの義の衣──をまとった、幸福で、一致した家族となる。すべての自然はこの上ない美しさの中で、絶えることのない賛美と崇敬の献げ物を神にささげる。世界は天の光に浴する。年月は喜びの中で推移する。月の光は太陽の光のようになり、太陽の光は現在の7 倍の明るさになる。明けの明星はこの光景を共に賛美し、神の子らは喜びの声を上げ、神とキリストは一致して、『もはや罪も死もなくなる』と宣言される」(エレン・G・ホワイト『マイ・ライフ・トゥデイ』348 ページ、英文)。

*本記事は、『恵みの衣ー聖書に見る「衣」の比喩的表現』からの抜粋です。

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『新改訳2017』 ©2017 新日本聖書刊行会

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