恵みの衣ー聖書に見る「衣」の比喩的表現

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恵みを表す祭司の衣服

プロテスタント宗教改革の大原則の一つが、いわゆる「万民祭司」の考え方です。この考え方は、(それだけでないにしても)特に上記の聖句から出たもので、その意味は、すべてのクリスチャンが神の前に「祭司」であって、彼らはイエスがおられるゆえに、自分と主との間に(一部の宗教のようには)地上の仲保者を必要としないということです。「神は唯一であり、神と人との間の仲介者も、人であるキリスト・イエスただおひとりなのです」(Iテモ2:5)。

イエスの生と死、復活、大祭司としての務めの後、神によって始められた古いヘブライ人の制度はキリストによって成就されました。レビ人の祭司職が廃止され、新しい秩序が確立されました。その中で、私たちはみな「王の系統を引く祭司」となりました。

今週は、古い制度における祭司が身に着けていた衣について学びます。それによって、新しい制度における「祭司」が何を意味するかを理解することができます。

古い契約の恵み

イエスは次のように言われました。「すべて多く与えられた者は、多く求められ、多く任された者は、更に多く要求される」(ルカ12:48)。これは多くのものを与えられている私たちアドベンチストが真剣に受けとめるべき原理です。私たちに与えられた真理をいくつかの他教派の教理と比較してみてください(たとえば、地獄における永遠の苦しみ、日曜日に変更された安息日、反キリストの統治下で、教会が密かに天に挙げられたときに福音を説く14 万4000 人のユダヤ人の乙女たち、など)。

問1 
出エジプト記32:1 〜6 を読んでください。アロンはこのはなはだしい背信に加わったことに関してどんな言い訳をしましたか。

アロンが民の背信に同意したことは信じ難いことです。アロンに与えられていた数々の特権について考えてください。彼は初めからモーセと共にいました(出4:27 〜30)。彼はファラオの前でモーセの代弁者となりました(出7:1)。彼の投げた杖は蛇になりました(10 節)。彼が水を打つと、水が血に変わりました(20 節)。彼は選ばれた少数の人たちと共に、特別に主に近づくことが許されました(出24:9、10)。このように、アロンは大きな特権にあずかっていたにも関わらず、試練に遭ったとき、みじめな失敗を犯しました。

しかしながら、ここに驚くべき事実があります。神はアロンの罪を赦されただけでなく、アロンが結果的に契約の民の最初の大祭司として聖なる衣を身に着けることをお許しになりました。それは、イエス御自身の大祭司としての働きの予型でした(ヘブ8:1)。言い換えるなら、アロン自身、恐るべき罪の責任を負っていましたが、彼はまた神の贖いの恵みにあずかる者となりました。この恵みはアロンを赦し、さらには彼が聖なる務めに復帰するのを許すほどに豊かなものでした。この務めの中心にあるのは神の恵みと憐れみ、赦しです。この意味で、アロンの生涯はキリストに結ばれたすべての人に与えられる憐れみと贖いについての特別な模範です。

祭司に任命されるアロンのイメージ画像

祭司制度

「次に、祭司としてわたしに仕えさせるために、イスラエルの人々の中から、兄弟アロンとその子ら、すなわち、ナダブ、アビフ、エルアザルとイタマルを、アロンと共にあなたの近くに置きなさい」(出エジプト記28:1)。

レビ人の祭司制度は、イスラエルの子らが荒れ野を放浪していたときに制定され(創14:18 参照)、その後1500 年以上続きます。レビ人が聖別されて主に奉仕するようになったのはレビ人の祭司制度によってです。

アロンはその重大な罪にも関わらず、新しい祭司制度の最初の指導者に選ばれました。祭司は民の代表ですから、神の前にあって民と交流することが求められます。なぜなら、これこそレビ人の役割、つまり堕落した人間と聖なる神との間の代表者、仲保者となることだからです。アロンは堕落した人間として、自分が代表する堕落した人間と容易に交流することができました。

同時に、祭司職は聖なる名誉であって、祭司は神聖と純潔を表すべき存在でした。事実、彼らは民に代わって主の前に立っているのでした。彼らは「聖」でなければなりませんでした。そうでなければ、祭司職の意味はありません。彼らは、聖なる意味で特異な存在でなければなりませんでした。その意味は、自分の代表する人々と近くありながら、民全体と明らかに異なる存在であるということです。

問2 
祭司にはどんなことが要求されましたか。それらは何を表していましたか。レビ21:7 〜24、22:1 〜8

現代の私たちにとって、こうした考えを理解することは容易ではありません。しかし、祭司職が特異なもの、聖なるもの、特別なものであることだけは、はっきり理解しておかねばなりません。祭司はイエスの象徴であって、その目的は、イエスが私たちのためになされることを影と予型において象徴するためでした。

祭司の服装品

「彼らが作るべき衣類は、胸当て、エフォド、上着、格子縞の長い服、ターバン、飾り帯である。あなたの兄弟であるアロンとその子らが祭司としてわたしに仕えるときの聖なる祭服を作るために」(出28:4)。

地上の聖所について研究すると、成り行きのままにされたものが何ひとつないことがわかります。神は祭司たちになすべきことを細かく指示しておられます。祭司の身に着ける衣服についても同じことが言えます。すべては正確な指示に従って行われました。

問3 
出エジプト記28 章を読んでください。ここには、大祭司アロンと一般の祭司の身に着ける祭服の作り方が書かれています。細かいことは別にして、ここからどんな霊的教訓を学ぶことができますか。

「祭服の型は山でモーセに示されていた。大祭司が身に着ける品々とその作り方は細かく指示されていた。これらの祭服は神聖な目的のために聖別されたものであった。それらは大いなる前兆成就であるイエス・キリストの品性を表していた。それらは栄光と美をもって祭司を覆い、彼の務めの神聖さを際立たせた。祭服を着るとき、祭司はイスラエルの代表者として立ち、その祭服によって、イスラエルが神の選民として世に現すべき栄光を示した」(エレン・G・ホワイト『ユースス・インストラクター』6 月7 日、1900 年)。

それぞれの色、織物、宝石、鎖などが持つそれぞれの意味や象徴については、これまで多くのことが書かれてきました。個々の意味はどうであれ、それらは「大いなる前兆成就」、すなわち天の聖所で仕えておられる私たちの真の大祭司イエスの完全と聖、美と威厳を表していました(ヘブ8:1、2)。

また、これらの聖句の中で、祭司がさまざまなものを「身に着けている」ことに注目してください(出28:12、29、30、38、42)。言うまでもなく、これは祭司職と聖所によって象徴される救いの計画全体における重要なテーマです。つまり、私たちの身代わりであるイエスが私たちの罪を御自身に負い、私たちの罪のゆえに刑罰を御自身にお受けになったということです。こうしたことのすべてが、私たちのためのイエスのご品性と働きを表す象徴的意味に満ちた聖所の儀式と祭司の衣服によって予示されていました。

裁きの胸当て

祭司が身に着ける服装品の中で、大祭司が着ける裁きの胸当て(出28:15)は最も念入りにつくられたものでした。ほかの衣類は、どちらかと言えば、服装品のこの聖なる部分の補足的背景のようなものでした。この章のかなりの部分、約3 分の1 がこの聖なる装飾品の構造を描写するために割かれています(出28:15 〜30)。このことからも、裁きの胸当てが聖所における祭司の働きの中でどれほど中心的で、重要なものであったかがわかります。

問4 
出エジプト記28:15 〜30 を読んでください。種々の宝石は何を意味しますか。祭司が「イスラエルの子らの名を胸に帯び」るとは、どんな意味ですか(29 節──黙21:12 〜14 参照)。

ここにも、独特な方法で表現された祭司のテーマ、つまり御自分の民を負われるイエスの象徴を見ることができます。ここで訳されている「置く、帯びる」のヘブライ語は「持ち上げる、負う、運ぶ」が一般的で、罪を負うことも意味します。それは祭司の務めの一部です(レビ10:17、出28:38、民18:1、22)。それが、ここでは、祭司がイスラエルの子らの名を「負う」という文脈で用いられています。その意味は、神の民は主、すなわち彼らを赦し、彼らを支え、神の要求される聖なる生活を送る力を与えてくださるお方に完全に信頼しなければならないということです(フィリ4:13)。

また、祭司が民の名を負う場所に注意してください。それは、彼の胸(心)です。聖句は特にこの場所に言及しています。胸(心)は、御自分の子らに対する主の愛と優しい関心を現すところとして広く用いられる象徴です。

もう一つの重要な点は、それぞれ異なった宝石は、イスラエルの異なった12 部族を表していることです(創49 章参照)。これらは多様な「生きた石」(Iペト2:5)からなる教会全体の特異性と特徴を示すものと考えられます。どれほど異なった個性、性格、賜物を持っていようとも、私たちはなお偉大な大祭司イエスの恵みと主権のもとで、目的において一つに結ばれるべきです。

私たちの大祭司イエス

「さて、わたしたちには、もろもろの天を通過された偉大な大祭司、神の子イエスが与えられているのですから、わたしたちの公に言い表している信仰をしっかり保とうではありませんか。この大祭司は、わたしたちの弱さに同情できない方ではなく、罪を犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われたのです」(ヘブ4:14、15)。

問5 
上記の聖句は誘惑と闘う私たちにどんな希望を与えてくれますか。

キリストは今日、天の聖所で私たちの祭司として働いておられるので、ある意味で、御自身の胸に胸当てを帯びておられます。「この方は常に生きていて、人々のために執り成しておられる」(ヘブ7:25)。私たちの大祭司が私たちの悩みや苦しみ、誘惑を思いやってくださる方であることを知っているので、私たちには慰めがあります。イエスもかつてはアロンと同じ人間であって、すべての人の試練と患難、誘惑を知っておられました。しかし、イエスはアロンと異なり、「罪のない」方でした。これは決定的な違いです。なぜなら、イエスが罪のない方であったゆえに、私たちは二つの素晴らしい約束にあずかることができるからです。(1)私たちは信仰によってキリストの義の衣を自分のものとして、それによって神の前に完全な者として立つことができます。(2)私たちはイエスと同様に、誘惑に打ち勝つ力を受けることができます。

問6 
ヘブライ8:10 〜13 を読んでください。そこにどんな約束が与えられていますか。どうしたらこれらの約束に従った生活を送ることができますか。

ここに、キリストによる救いにあずかることと、キリストの義で覆われることが何を意味するかについての描写を見ることができます。「わたしは彼らの不義を赦し、もはや彼らの罪を思い出しはしないからである」(ヘブ8:12)は、素晴らしい約束です。イエスがここで語っておられるのは、信仰によってイエスに従い、イエスの新しい契約の約束を自分のものとした人たち、救いを得るためにではなく、すでにそれを受けているゆえに、イエスの律法を心に刻み、それに従う人たちのことです。イエスの義で覆われた今、彼らはその義を自分の生活の中で実践します。これが新しい契約の心であり、魂です。

まとめ

「キリストは真の幕屋の奉仕者、キリストを個人的な救い主として信じるすべての人の大祭司であって、その務めはほかのだれにもできない。キリストは教会の大祭司である」(エレン・G・ホワイト『神を知るために』74 ページ、英文)。

「私たちは日ごとに信仰を働かせるべきである。この信仰は働かせるにつれて日ごとに増大する。イエスが私たちを贖い、愛し、御自分の血によって私たちを罪から洗い、神とみ父に仕える王たちまた祭司たちとしてくださったと信じるにつれて、それは増大する」(エレン・G・ホワイト『神の息子・娘たち』287 ページ、英文)。

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