恵みの衣ー聖書に見る「衣」の比喩的表現

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放蕩息子の新しい衣服

英国の小説家サマセット・モームは『雨』という短編の中で、ある娼婦を福音に「回心」させた南洋の宣教師について書いています。そのやり方には、いくぶん過酷で、許せないところもありますが、彼は女を救うために心血を注ぎます。彼は女に、アメリカに帰って、刑期を終えるように説得します(女は刑を逃れようとしていたのでした)。しかし、彼女は強く反対します。刑務所で自分を待ち受けている拷問と退廃、恥辱を逃れるためでした。刑期を務め上げることは立ち直るために必要な悔い改めの一過程だから、アメリカに戻るように、と宣教師は主張します。

しかしながら、物語は予期しないかたちで終わります。宣教師のつぶれた死体が浜辺に打ち上げられていたのです。自殺でした。何が起こったのでしょうか。ずっと娼婦と一緒だった宣教師は彼女と罪深い関係に陥ったのでした。彼が自殺したのは、そのような自分自身を赦すことができなかったからでした。

これらの人たちが必要としていたものは、私たちが罪人として必要としているものでした。それは、イエスが放蕩息子のたとえの中で啓示しておられる恵みと約束についての個人的な経験です。

同じ両親、同じ食べ物

「ある人に息子が二人いた」(ルカ15:11)。このたとえの中で、同じ父親に生まれた二人の息子は二つの品性の特徴を表しています。兄は明らかに忠誠、忍耐、勤勉を表していました。弟は明らかに怠惰、気まま、無責任を表していました。どちらも同じ両親から生まれていました。どちらも同じ父親の変わらない愛と誠実な関わりの中で育っていました。ところが、一方は忠実で、他方は不誠実なように思われます。この違いはどこから来たのでしょうか。

問1
このたとえはほかのどんな物語を思い起こさせますか。創4:1 〜8、25:25 〜34

これは不思議な現象ですが、実際にはよく見られることです。同じ両親から生まれた二人の(あるいは、それ以上の)兄弟が、同じ家庭で育ち、同じ教育と愛情を受けながら、一方は忠実で、積極的に親に従うのに、他方は、どのような理由からであれ、これとは正反対の生き方をします。いかに不可解であったとしても、これが自由意志を持つ人間社会の厳然たる現実です。私たちは反逆したのが弟であるという事実だけに目を向けがちですが、彼がなぜそのように行動したのかを理解する必要があります。

反対方向に歩いていく二人

問2
ルカ15:12 を読んでください。息子の要求に対する父親の応答の仕方から、どんな神の態度を学ぶことができますか。

父親が息子に、性急に事を運ばず、もういちど考え直すように忠告し、計画についてよく考えるように説得したのかどうかは、聖句に書かれていません。たぶん、そうしたのでしょうが、結局のところ、息子は「財産の分け前」をもらい、旅立っています。神は人間に対して、自分で選択し、自分の好きなように生きる自由を与えておられます。当然ながら、私たちの選択には結果がともないます。しかも、それは私たちの想像し、予見することのできるものであるとは限りません。

喜び勇んで

息子が袋に荷物を詰めて、旅立とうとしているのを見守る父親の気持ちを想像してください。父親は息子に、どこに行くのか、仕事はどうするのだ、将来の夢は何かと尋ねたことでしょう。息子が何と答えたかは知るすべもありません。父親にとっては、その答えは喜ばしいものではなかったはずです。一方、息子は将来に明るい希望を抱いていたことでしょう。

それもそのはずです。彼は若く、冒険心に富み、十分なお金と見るべき世界がありました。世が彼に提示するあらゆる可能性に比べれば、農場での生活は単調で、退屈なものに思われたことでしょう。

問3
ルカ15:13 〜19 を読んでください。ここに記されているのはどのような悔い改めですか。それは心からの悔い改めですか。つまり、彼が悔いているのは自分の行為そのものですか。それとも自分の行為の結果ですか。

彼が金儲けに成功し、人生を楽しんでいたと想像してください。おそらく、彼は「父の前にひざまずくために」戻ってくることはなかったでしょう。たいていの人は何かに失敗したとき、罪そのものより、罪の結果を悲しむものです。かたくなな無宗教者でさえ、もし淋病その他の性病に感染すれば、自分の犯した淫行を悔いるものです。自分の誤った選択の結果としての苦しみを悔いたとしても、それは少しもほめられることではありません。

この若者はどうだったのでしょうか。厳しい環境が彼の態度に変化をもたらしました。彼は心の奥底からへりくだり、自分が父に対して、また神に対して罪を犯したことを認めました。彼が父に向かって言おうと心に決めた言葉(18 節)が彼の悔い改めの真実性を物語っているように思われます。

あなたは、再び故郷に帰れる

米国の小説家トマス・ウルフは20 世紀の初頭、『汝、再び故郷に帰れず』という小説を書き、その中で、南部の貧しい家庭に生まれ、ニューヨークに行き、そこで作家として名をあげ、故郷に帰ろうとする男の話を書いています。しかし、それは容易な帰郷ではありませんでした。

問4
放蕩息子のたとえの中で、父と再会するために長い旅をするのはだれですか。これを、たとえば「見失った羊」や「無くした銀貨」のたとえと比較してください(ルカ15:4 〜10)。

見失った銀貨は自分で動くことができないので、元に戻ることができません。一方、放蕩息子の方は、いわば「真理」から離れたので、闇を経験した後で(ヨハ11:9、10 参照)、自分の誤った行為に気づいています。神は救いの歴史の中で、光を受けながら、その光から故意に離れ、自分の道を歩んできた人間に対処してこられました。このたとえの素晴らしい点は、どのような状況にあろうとも、また彼らが神の慈愛を知った後で神に背を向けたとしても、神は喜んで彼らを、かつての神との契約家族の地位に回復してくださるということです。しかし、たとえの中の若者は自分の意思で家を出たのと同じように、自分の意思で家に戻る決断をしなければなりませんでした。私たちの場合も、これと同じです。

もう一つ興味深いのは、これらのたとえが語られている背景です。ルカ15:1、2 を読んでください。イエスの話に耳を傾けているさまざまな人々に注目してください。イエスはここで、終末の黙示的諸事件や、悔い改めない者たちに臨む滅びや裁きについて警告する代わりに、失われた者たちへの父なる神の真剣な愛と関心についてたとえ話をしておられます。

最良の衣

放蕩息子は帰る決断をしなければなりませんでした。父親によって強制されたのではありません。神はだれに対しても服従を強要されません。神が天においてサタンを、またエデンにおいてアダムを強制的に服従させられなかったとすれば、今、そうされる理由があるのでしょうか(ロマ5:12 〜21)。

問5
ルカ15:20 〜24 を読んでください。息子を受け入れるに先立って、父親は彼に何らかの罰や労働、償いを要求していますか。このことは私たちに何を教えていますか。エレ31:17 〜20 参照

息子は父親に罪を告白していますが、聖句を読む限り、父親はほとんど耳を傾けていないような印象を受けます。順序に注意してください。父親は走り寄って息子を迎え、首を抱き、接吻しています。確かに、息子の告白は立派で、父親よりも息子の印象をよくしています。ここでは息子の行為は、彼の言葉よりも多くのことを語っています。

帰ってきた次男を暖かく迎え入れる父とそれを怪訝そうに見ている兄。

父親は、召使いたちに「最良の衣」を持って来て、息子に着せるように言っています。父親は自分の与えることのできる最高のものを息子に与えました。息子は何年も貧困の中で生活してきました。家に帰ったときは、たぶん、みすぼらしい身なりをしていたことでしょう。何しろ、それまで豚を飼っていたのですから。父親は息子が着替えるのを待ってから彼を抱きしめたのではありません。息子が父親に抱かれたときに着ていた衣と、後で着せられた衣との際立った対照に思いを向けてください。

このことからわかるのは、少なくとも父親と放蕩息子の関係がこの時点で完全に回復したことです。もし「最良の衣」をキリストの義の衣と理解するなら、必要なすべてのものがそのとき、そこで備えられたことになります。放蕩息子は悔い改め、告白し、生き方を改めました。父親はその他生活に必要なものを備えました。これが救いの象徴でなくて何でしょう。

父自身の衣

エレン・G・ホワイトは『キリストの実物教訓』の中で、聖句に書かれていない興味深い言葉を付け加えています。父親がみすぼらしい姿で帰ってきた息子を迎える場面です。「父は、他人が軽蔑の目でぼろをまとった息子のあわれな姿をあざわらうことを許さない。父は、自分の肩から、巾広いりっぱな上衣をぬいで、息子のやつれた体にかけてやる。すると青年は、悔い改めの涙にむせんで、『父よ、わたしは天に対しても、あなたにむかっても、罪を犯しました。もうあなたのむすこと呼ばれる資格はありません』と言ったが、父は息子をしっかりと抱いて、家へ連れて入った。召し使いの地位を求める言葉をいう機会はなかった。彼は、息子なのである。家の最上のものをもって優遇しなければならない人である。そして、召し使いや女中たちが尊敬して仕えなければならない人なのである。

父は召し使いたちに言いつけた、『「さあ、早く、最上の着物を出してきてこの子に着せ、指輪を手にはめ、はきものを足にはかせなさい。また、肥えた子牛を引いてきてほふりなさい。食べて楽しもうではないか。このむすこが死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったのだから」。それから祝宴がはじまった』」(『希望への光』1263 ページ、『キリストの実物教訓』184 ページ)。

問6
上記の引用文は物語全体を理解する上でどんな助けになりますか。それはまた、神の品性について何を教えていますか。

父親は急いで息子の恥ずべき姿を覆い隠そうとしています。ここに、学ぶべき教訓がありますか。

問7
ルカ15:24 を読んでください。息子が死んでいたのに生き返ったという父親の言葉をどのように理解すべきですか。

万物が最終的に決着を見るとき(黙21:5)、大争闘が終結するとき、人間はみな永遠の命か永遠の死のどちらかに定められます。中立の立場はありません。これは、放蕩息子と同じように、良きにつけ悪しきにつけ、日毎の選択をする私たちにとって、考えねばならない重大な問題です。

まとめ

「主が御自分の被造物を扱うことにおいてどれほど優しく、憐れみ深いか考えてみなさい。主は御自分の罪深い子を愛し、彼に戻るように嘆願される。父なる神の御腕は悔い改めた御自分の息子の上に置かれ、父なる神の衣は彼のぼろ服を覆い、指輪は忠誠の印として彼の指にはめられる。それなのに、何と多くの者が無関心と侮りをもって放蕩息子を眺めることか。彼らはパリサイ派の人々のように、『神様、わたしはほかの人たちのよう……でもないことを感謝します』と言う(ルカ18:11)。しかし、キリストの協力者であると主張し、魂が誘惑の洪水と闘っていながら、たとえの中の兄のようにかたくなで、頑固で、利己的な態度で傍観している者たちを、神がどのようにご覧になるか考えてみなさい」(エレン・G・ホワイト『福音宣伝者』140 ページ、英文)。

  「キリストが備えておられた能力と恵みは、み使によって、信じる魂一人一人に与えられます。どんなに罪深いからといっても、彼らのために死なれたイエスから能力と純潔と義とを受けることができないという人はありません。イエスは罪に染まって汚れた衣を脱がせ、義の白い衣を着せようと待っておいでになります。死ぬることなく、生きなさいと招いておいでになるのです」(『希望への光』1952 ページ、『キリストへの道』68、69 ページ)。

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