恵みの衣ー聖書に見る「衣」の比喩的表現

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裾の長い晴れ着

この物語の発端はヤコブと2 人の妻と2 人の仕え女たちの登場する創世記29 章にあると言えます。それから、1 人の父親と4 人の母親、それに12 人の子どもたちが登場します。このような家庭がどれほど機能的に不健全で、悲惨な家庭になるかは、預言者でなくてもわかります。

ヤコブが、エデンから守られてきた結婚の模範──1 人の夫と1 人の妻──に従うことができていたなら、どれほど良かったことでしょうか。これこそ、あらゆる時代の、あらゆる家庭のための理想的な模範でした。

しかし、すでに学んだように、神は私たちを自由な存在者として創造されました。そして、この自由は悪を行う自由を含みます。またヤコブ自身がラケルの子たちをレアの子たちよりも偏愛し、家族のなかに不和が生じる原因を作りました。たぶん、あのヨセフに与えた「裾の長い晴れ着」は、ヤコブの犯した過ちを代表しています。一つの過ちがどのようにして別の過ちを招き、そして取り返しのつかない結果をもたらすようになるかを学ぶことができます。しかし神は、信仰のあるヨセフを祝福し、万事を益となるように導かれました。

しかし、罪が私たちと私たちの愛する者たちを食い尽くす前に、罪の芽を摘み取ることはとても大切なことです。

不幸な家庭の始まり

私たちの人生は特定の、隔離された領域や区域に密封されているのではありません。すべてのものは互いに影響を与え合っています。

もちろん、大学の講義を受けるまでもなく、一人の人の行為・行動がほかの人々に、ある場合には数世代にわたって、過激で悲劇的な影響を及ぼすことを、私たちは知っています。自分がどのような人間で、なぜここにいるのか──これらはすべて、ある程度まで、全く自分の支配力の及ばない他人の行為によって影響を受けてきました。したがって、私たちは自分の語ること、行うことに関して、よくよく注意する必要があります。というのは、短期であれ長期であれ、善であれ悪であれ、私たちの行いや言葉が人々にどのような影響を与えるかはだれにもわからないからです。

問1 
創世記24 章、29:21 〜30:24 を読んでください。ここに、どのような将来の家庭の姿が描かれていますか。ここから、真理の原則に反するような世の慣習に従うことが災いをもたらすことについて、どんな教訓を学ぶことができますか。

「ヤコブの罪とその罪への一連の出来事は、悪影響を及ぼさないわけにはいかなかった。それは、彼の息子たちの性質とその生涯に苦い実となってあらわれるにいたった。この息子たちが成人したころ、彼らの性質に重大な欠点があらわれた。一夫多妻の結果が家庭内に明らかに見られた。この恐ろしい悪は、愛の源泉そのものを枯らし、その影響は最も神聖なきずなを弱める。数人の母のねたみは、家庭の関係をみじめなものにした。子供たちは争い合い、他からのさしずを受けるのをきらって成長した。そして、父親の生涯は心労と悲しみにおおわれ、暗くなった」(『希望への光』103 ページ、『人類のあけぼの』上巻228 ページ)。

破れた

ヨセフと兄弟たち

兄弟間の争いはいいものではありません。ここに記されている例などは、実にひどいものです。というのは、そこには憎しみやねたみ、偏愛や自尊心などが混ざり合っていて、最終的に悲劇を生み出すことになるからです。第一に、ヨセフの兄弟たちはいい兄弟関係ではありませんでした。

問2 
創世記34 章を読んでください。兄弟たちの品性についてどんなことがわかりますか。

さらに、ヨセフの夢の件がありました(創37:5 〜11)。その夢の中で、家族全員がヨセフに服従して、ひれ伏しています。兄弟たちが前からヨセフを好きでないのなら、このような夢は彼らの憎しみを増長するだけのことです。実際、創世記37:8 はそのように記しています。それだけではありません。

問3 
創世記37:2 を読んでください。どんな意味で、このことはヨセフと兄弟たちとの関係を悪化させることになりますか。

彼らは自分たちの告げ口をしたヨセフを赦すことができませんでした。聖句には、彼らが何をしたのか具体的に書かれていませんが、彼らの過去の行動から考えると、自分たちと家族にさらなる恥辱と非難を招くことにならない前に手を打つ必要のある何かであったことのように思われます。

最後に、たぶん最大の問題は、聖書にもはっきりと記されているように、「イスラエルは、ヨセフが年寄り子であったので、どの息子よりもかわい」がったことでした(創37:3)。兄弟たちも愚かではなかったので、父の態度を責めたことでしょう。それによって、事態はいっそう悪化したかもしれません。

ヨセフに対する兄弟たちの行動には弁解の余地がないのですが、こうしたことは彼らのその後の行動を理解する上で助けになります。

長袖の晴れ着

ヨセフの兄弟たちの邪悪な品性はヨセフの品性ときわだって対照的でした。

「しかし、ラケルの長男ヨセフは、著しく異なった性質の持ち主であった。彼のまれに見る容貌の美は、彼の精神と心の内面的美の反映であった。ヨセフは純粋で、活動的で、歓喜にあふれていた。そして、道徳的にも真剣で堅固な性質をあらわしていた。彼は、父親の教えに耳を傾け、神に従うことを愛した。後年エジプトに行ったとき、彼のうちに著しくあらわれた柔和、忠誠、誠実などの特性が、すでに彼の日常生活のなかに見られた。母親がなくなっていたために、彼は、父親に強い愛着をおぼえた。そして、ヤコブの心は、年をとってから生まれたこの子と堅く結ばれていた。彼は『他のどの子よりも』ヨセフを愛した」(『希望への光』103 ページ、『人類のあけぼの』上巻228、229 ページ)。

問4 
創世記37:3、4 を読んでください。父親によるこの行動は事態をどれほど悪化させましたか。

偏愛する父親からヨセフに与えられた、さまざまの色で美しく織られた高価な着物は、明らかに兄弟たちのそれよりも立派なもので、ふつうは高貴な人々が身に着ける着物でした。兄弟たちは、父親がこの子に長子の特権をも与えると考えたことでしょう。そうなれば、ヨセフは兄弟たちよりも多くの財産を受けることになるのでした。父親は単に愛情の印としてヨセフに高価な着物を与えたつもりかもしれませんが、それは大きな過ちでした。というのは、この行為が兄弟たちの心にあったヨセフへの憎しみの炎をあおることになったからです。

この着物は地上の栄誉、この世の卓越性を象徴しています。それは地上のもの、したがって一時的で、表面的なものです。しかしながら、この物語を書くにあたって、モーセはこの着物を、ヤコブがほかの子どもたち以上にヨセフを愛するという文脈の中に置いています。したがって、この着物はまた、ヨセフに対する兄弟たちの憎しみとその結果という文脈の中で中心となるものでした。

はぎ取られた着物

問5 
創世記37:12 〜25 を読んでください。善と悪、純真さと不忠実がどのように描かれていますか。

ヨセフの兄弟たちはヨセフを殺す計画を立てただけでなく、父に何と言うかも、事前に打ち合わせていました。「ああ、お父さん。何ということでしょう。この着物を見つけました。ヨセフのものではありませんか。もしそうなら、ヨセフは凶暴な動物に食べられたに違いありません」。人はどうして、これほどまでに自分自身の兄弟に対して憎しみを抱くことができるのでしょうか。

問6 
創世記37:23 を読んでください。この出来事にはどんな深い意味がありますか。

遠くから近づいてくるヨセフの姿を見たとき、兄弟たちがまず口にしたのは、ヨセフに対する彼らの憎しみを増長した夢のことでした。興味深いことに、兄弟たちがヨセフに対してとった最初の行動は彼の着物をはぎ取ることでした。ヘブライ語を見ると、その着物は、足下にまでとどく長い衣でした。聖句には、ヨセフがその着物を「着ていた」ことが強調されています。ほかの理由に加えて、ヨセフがその着物を着て近づいてくるのを見たとき、彼らの怒りが燃え上がったに違いありません。

ここに、自分たちに深い憎しみと怒りを生じさせた原因を取り除こうとする兄弟たちの姿を見ます。彼らにとって、ヨセフの着物はヨセフに対するあらゆる憎しみ、ヨセフのあらゆる美点、自分たちの欠点を象徴するものでした。ヨセフの着物をはぎ取ったとき、彼らは深い喜びと満足感を味わったことでしょう。今、突然、兄たちにヨセフの優越性の象徴だった美しい着物をはぎ取られたのですから、ヨセフは無力でした。彼自身の夢によれば、兄弟たちはいつの日か彼の前にひれ伏すことになっていました。

「あなたの息子の着物」

「兄弟たちはヨセフの着物を拾い上げ、雄山羊を殺してその血に着物を浸した。彼らはそれから、裾の長い晴れ着を父のもとへ送り届け、『これを見つけましたが、あなたの息子の着物かどうか、お調べになってください』と言わせた」(創37:31、32)。

どうして、愛情深い父親によって育てられた息子たちが、父親から与えられた弟の着物を血に浸し、それを父親に渡して、弟のものかどうか確認させるまでに身を落としたのでしょうか。

問7 
創世記37:26 〜36 を読んでください。兄弟たちが父親の前で用いている言葉から、どんなことがわかりますか。

兄弟たちの冷淡さ、思いやりのなさは驚くばかりです。おそらく、これは一種の無意識的な自己防衛反応だったのでしょう。彼らは、見つけた着物を「私たちの兄弟の着物」でなく、「あなたの息子の着物」と見なすことによって、自分たちの犯した罪に対する罪悪感を薄めようとしたのでした。

ヨセフの着物はヤコブとヨセフの関係を象徴するものでしたが、血にまみれた今は、ヨセフの「終焉」を象徴するものとなりました。それはヨセフのいのちの終わり、またヨセフに対する兄弟たちの憎しみの終わりとなるはずでした。ところが、この行為は新たな問題を引き起こすことになります。兄弟たちは父親の嘆き悲しむ姿を見て苦しんだに違いありません。父親が毎日、嘆き悲しむのを見て、罪悪感と良心の呵責に苦しめられたに違いありません。

問8 
創世記42:13、21 〜23、32、44:28 を読んでください。これらの聖句から、兄弟たちの行動が自分自身と家族にもたらした長期におよぶ影響についてどんなことがわかりますか。

最終的には、主は兄弟たちの行った悪を善に変えてくださいましたが、そのことによって彼らの行為が正当化されるわけではありません。彼らの行為は極端な例ですが、この物語からも明らかなように、罪はすぐに手に負えなくなり、私たちの目をくらまし、しばしば悲劇と苦しみの原因となるような行動へと導きます。

まとめ

「何が待ち受けているかも知らないまま、ヨセフは長くてつらい旅の後に兄弟たちに挨拶するために喜び勇んで彼らに近づいた。兄弟たちは荒々しく彼を拒絶した。ヨセフは自分の用件を伝えたが、彼らは答えなかった。ヨセフは彼らの怒りに満ちた顔を見て驚いた。……兄弟たちはヨセフを偽善によって責めた。彼らがねたみの感情を口にしたとき、サタンが彼らの心を支配した。彼らには、弟に対する憐れみの感覚も、愛の感情もなかった。彼らはヨセフの着ていた晴れ着をはぎ取った。父親の愛情の印であるこの晴れ着が彼らのねたみの感情をかき立てたのであった」(エレン・G・ホワイト『預言の霊』第1 巻128、129 ページ、英文)。

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